認知症EYES独自視点のニュース解説とコラム
  • くらし

新たな日々への挽歌 〜どこに歩みだしていくのか〜

コラム町永 俊雄

▲季節のめぐりは美しい。季節は変わることで次の季節の扉を開く。専門家の中には、これからはコロナと共にある社会でしかありえない、というが、それはどんな社会のことなのだろう。それは誰かの答えによるものではなく、私たちの中にあるものを探していくしかないのかもしれない。

長く続いてきたコロナの事態も、収束の気配なのだろうか。
人数制限などの規制緩和も進んで、経済を回して、ひょっとしたらリベンジ回復なのかという見方もある。その一方で、どうしても私たちの日常という風景が以前とは底深いところで変わってしまったという感覚がまつわりついてならない。

街に出れば、行き交う全員がマスクをしていて、テレビをみれば、アナウンサーや出演者が画面の片端に大きく分かれて話し合っている。どう見ても異様で不自然な光景なのだが、誰もがそれに慣れてしまった。しかし、慣れてしまった中で、どこかに置き忘れるようにして見えなくしてしまったことがある。

ウイルスは目に見えない。だからコロナの事態の状況は感染者数でしか私たちは判断できない。感染者数の増減が毎日報じられ、そのことで私たちは安心したり緊張したりする。

「感染者が少なくなってよかったね」と誰もが言い交わし、現に私自身も、配偶者とそんなふうにほっとした思いで語るのだが、そのあとで、ふと何か落ち着かない。もちろん、感染者数の減少にケチをつけているわけではないということはくどいほど言っておきたいのだが、そも「感染者」とは誰なのか。それは私かもしれない誰かなのである。

このコロナの日々の中の見えないところで、この社会の風景は変質した。
私たちの日常は、実は感染者という人々を排除するようにしてしか安心の社会を形成できないのかもしれない。この感染者の減少は、ひとつには誰もが公衆衛生の原則に忠実に、手洗い、うがい、マスクを励行したからだと言われる。これを聞いたときには多くの人がなにか誇らしく報われた気分になったろう。自分たちは正しいことをしたのである。清潔な社会を実現したのである。

しかし、外から帰るたびに律儀に手を洗いながら、その無意識の行為の向こうの遥かな地平に、私はひょっとしたら感染者という存在を置き去りにしていたのかもしれない。手を洗うことで、感染者ではない私と盟約するようにして。
思い起こせば、遥かな地平の記憶には、街を歩いても電車に乗ってもいつも他人を感染リスクとして遠ざけ排除し、地域にある高齢者施設でクラスターが発生すれば、そこの利用者介護者もろとも「アブナイ」場所として中傷や差別を向けた記憶がうずくまっている。
外から帰るたびに洗い落とそうとしていたのは、コロナウイルスだけでなく、なにか大切なものを洗い落としてしまったのかもしれない。

いっとき感染者数が収まったときにはウイズコロナということが言われた。
ウイルスは、地球上の現生人類の誕生以前からあまねく存在していたのだから、撲滅や制圧ができるはずもなく、うまくコントロールして共生するしかない。だからウイズコロナである、と。
しかしこの言葉自体も、感染の大波が来るたびに掻き消え、施策者は状況に合わせて「ウイズコロナ」を都合よく出し入れするようにしてなんとか乗り切ってきたのだ。

これから、仮に上手くいくとして収束への道筋のプロセスでまた「ウイズコロナ」の言葉が出てくるだろう。この社会の再起動にはウイズコロナの概念が鍵となる。それはコロナ以前から言われてきた「共生社会」の問い直しで、しかもそれは共生の最も苛烈な現実、元の世界には戻れないというこの社会構造の転換として突きつけられている。

ただ、ウイズコロナとは言っても、ウイズ感染者とは言われない。それはなぜだろう。ここに私は危うさを感じる。異質を排除してきたことを清算できない社会のままでウイズコロナも実現するはずがない。
このコロナの事態の初期に、私は目指すのは「安心して感染できる社会」ではないかと提起したが、反発だけでほとんど受け入れられなかった。

改めてこれからのウイズコロナの社会をどう考えたらいいのだろう。街頭インタビューでは、元の生活が戻ってくる、と街場の人が笑顔で答えていたが、その元の生活とはどんなものだったのだろう。

私は、多分、考えすぎなのだろう。自分でもよくわからない。ただ、変わってしまったことのさらに深いひとつが、このように自分の言説に幾重にも断りを入れたくなることだ。
最近のSNSなり、新聞の論考にも、「これは私の意見だが」とか「他の捉え方があるのは承知しているが」とクドクドと前置きして展開している場合が多い。
それはまるでテレビショッピングのサプリの広告の片隅にお約束として必ず置かれている「個人の感想です」というクレーム対策的な注釈そのものなのだ。

それはあのコロナの日々以降の、異説を封じ込め、潰し合う幾多の非難の応酬がもたらした荒涼の風景に思える。それはどう考えても健康な社会の姿ではない。
すっきりと言説が屹立し、並列し、選択し、新たな言葉や考えを生み出す土壌は干上がったままなのだろうか。

そして、私はやはり会って話したい。もちろん、オンラインにも十分にその恩恵は受けている。オンラインを否定はしない。しかし、目の前の人の息遣いやまなざしの中で語りたい。マスクもその時は外して、友や仲間と意見を交わし、その人の言い淀む表情や、ふと遠くを見るようなまなざしから思いを汲み取り、自分の言葉を探り当てるような、あるいはバカ話を交わすような、そうした対話と雑談の時間と場が欲しい。それはもう戻ってこないのか。

ポストコロナ、ウイズコロナの社会は、感染者をはじき飛ばし、異論や異質なものを排除しながら均質な意見と清潔な街並みの中に築かれていくのだろうか。
高齢者や子供、障害のある人、認知症の人などみんなと共に雑多で、街並みの奥にいささかのいかがわしさも匂わせる地域社会に、うろたえても迷ってもそこが自分の場所と思い定めて生きていく、そのような時代はもう戻ってこないのだろうか。

|第191回 2021.11.4|

この記事の認知症キーワード