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ちいさこべの社会へ 〜少子化対策に想う〜

コラム町永 俊雄

▲梅がほころび始めた。これから桃の節句、お雛様を飾る季節だ。子供達の育ちを祝う行事は、花を待つ想いと重なる。少子化対策にそうしたみずみずしい思いを通わせたい。

山本周五郎に「ちいさこべ」というすがすがしい作品がある。
舞台は江戸神田。大火で親もろとも、大工の老舗「大留」の一切合財を失った若棟梁、茂次が主人公だ。まっすぐな気性の茂次にとっては親を失うと同時に、老舗の再建が年若い自分にのしかかる。茂次は悲嘆にくれる間もなく「大留」の再興を目指すが、若者らしい一途さで他人の意見にも助力にも一切耳を貸さず、がむしゃらに突き進む。

一方、下働きの娘おりつは、茂次にそんな余裕はないと強く反対されながらも、焼け出された孤児たちを放っては置けない。茂次に隠れるようにして、孤児たちを集めて住まわせ世話をした。
そうした孤児たちとの生活を余儀なくされるうちに、茂次は次第に近隣の親方衆、職人、そしておりつや孤児たちとの共同体の存在に気づき、やがて地域の人々と共に「大留」の再興を組み直していく。そんな物語だ。
物語は、茂次がおりつに「おれと、このうちをやってくれないか」と言う場面で終わる。

この「ちいさこべ」から、ふと連想してしまったのが、「異次元の少子化対策」。
ちいさこべのぬくもりに比すると、なんともたけだけしい言葉である。
そもそもが「次元」とは物理や数学での世界空間の成り立ちに関わる概念だから、マ、「異次元」となればアインシュタインも思わず舌を出すような超弩級のブラックホール的対策なのだろうと思ったのだが、世間にはそれほどの驚愕もなく、「あ、またか」と言った感じで、スルーされてしまうのは、その前に異次元の金融緩和があったからだろう。そもそも異次元がそんなに何回も起きたら地球の壊滅である。

少子化対策を一生懸命やります、と言うだけではいかにもインパクトがないと、たぶん、息子さんあたりからお土産を手渡されながら吹き込まれたのかもしれない。

社会の閉塞を打ち破ろうとする時、景気付けに言葉だけが内実からかけ離れて先鋭化するが、それ自体がもはや時代の粉飾で、スーパーのチラシに踊る「激安!」はどんなに派手な色合いのデカ文字にしようと、そのまま日常の燃えるゴミに紛れるしかない。
異次元も同じで、おそらく翌朝の新聞の見出しに踊ることを期待してのキャッチだったのだろうが、そのインフレ言葉の空疎がかえって足元をすくうことになっている。

少子化はこの国の未来を閉ざす。そんなことはずっと以前からわかっていたことだ。
私の気になるのは、その少子化対策の内容ももちろんあるのだが、少子化を終始、「対策」とするその政治感覚だ。もちろん、こうした宿命的な社会の課題については、現実の事象を対象化し分析し、財源を割り当て解決すると言う施策過程が必要なのは言うまでもない。
が、果たして、少子化を「問題」として切り分け、「対策」を貼り付けることが効果的な解決につながるのだろうか。

フィンランドは世界でも最も子育て支援策が充実している国とされているが、この国の子育て支援は「対策」の中に閉じられてはいない。
2022年の世界フォーラムでのフィンランドのジェンダーギャップ指数(男女格差を数値化したもの)は世界2位である。ちなみに日本は先進国中、最低レベル…

つまり、子育て支援が成り立つのは、社会全体の健全度と連動しているのである。ジェンダー平等が進み、女性のほとんどがフルタイムで働き、ひとり親、再婚、事実婚、同性婚など、多様な家族の形が子育ての充実を生んでいる。

対してこの国では、子供と高齢者は常に対策される対象なのである。子供は未熟で、高齢者は衰退であり、子供も高齢者も社会の負担なので、対策が必要である、と。
今の議論では、世代間を分断してそれぞれを問題化し対策を立てている。子供の問題と高齢者の問題は地続きである。子供の健やかな育ちは、それはやがて子供のいない人や高齢者などどの世代にも、巡りめぐって生き生きと安心できる社会がもたらされる。

そもそも、少子化対策を語るのであれば、支援給付金はもちろんとしても、なぜこの4月にも設けられるこども家庭庁のことをもっと語らないのだろう(私自身は、こども庁としたほうが性格が明確だと思う)。少子化対策とこども家庭庁とを別々に語るメンタリティは問われていい。

少子化対策を包み込むようにして、この社会はどうあったらいいのか、この社会での子供の存在はどんなふうに位置付けられているのか、そうした全体性の中での私たちの子供観の再確認が必要なのではないか。
子供を見るまなざしをもう一度確かめたほうがいい。「少子化」とくくるのではなく、その一人ひとりのいのちをどう考えればいいのか。子供たち、私の命を受け継ぐもの、この社会を受け継ぐいのちたち。

幼な子のピアノ教室の演奏会があればいそいそと出かけていく。ま、聴くに耐えない演奏なのだが、聴いているとなぜか涙が滲む、そんな経験をしたことがないだろうか。

「子育て」ではなく「子育ち」と捉える考えがある。「子育て」はともすれば親の責務で負担に傾く。対して「子育ち」は子の主体の見守りと尊重で、そこから親も育つ。子育ちは親育ちである。
子供の力で社会も育つ。「対策」はそこを見ない。どこかで「産んでもらおう」とする計算づくの下心が垣間見える。まだ見ぬいのちから問われているのは、この社会がいのちを育むに足るほどに健全なのかということである。変わらなければならないのは、この社会の側なのだ。
少子化、とか高齢化、と言うのは人間の社会を語る言葉というより、行政問題の枠組みに追いやるための言葉である。あってはならないものと押し潰すような対象化の言葉だ。

山本周五郎の「ちいさこべ」では、悲嘆と苦難に直面したひとりの若者がもがき苦しむ中で、同じ災難に見舞われた孤児たちの伸びやかな力に励まされるようにして、その若者は自身を新たに組み直し、老舗の再興の意味や役割を人々のつながりに見出していく。

山本周五郎は、この作品を苦難の克服ではなく若者の再生の物語とし、そこに「ちいさこべ」という子供たちの存在をタイトルにそっと置いている。文豪の意図するところは何か。それは今のこの社会の少子化対策が見落としているところを語ってはいないか。

ちいさこべは故事に由来する。
雄略天皇のとき、帝は養蚕振興のためお蚕さまを集めよ、と近侍するスガルというものに命じた。帝は「さま」をつけないので「蚕(こ)を集めよ」と言い、それをスガルは取り違えて孤児たちを集めた。帝は笑い、その養育をスガルに命じ、少子部(ちいさこべ)のスガルの官名を与えたという。一説には社会的弱者のための官庁組織の始まりとも言われる。

うがった見方をすれば、養蚕という当時の産業経済の象徴を、孤児養育という福祉的な象徴に置き換えそれを少子部(ちいさこべ)とし、いにしえの国の再生を託したこの故事の示唆するところは小さくない。

ちいさこべという言葉には、小さくてかけがえのない未来への私たちの大きな思いが込められている。こども家庭庁は「少子部(ちいさこべ)」にすればよかったのに…

私たちの、ちいさこべの社会へ。

|第237回 2023.2.15|

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