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マスク着用の緩和は誰が判断するのか

コラム町永 俊雄

▲都会の一角に咲く河津桜。高層ビルにはさまれて、働く人の行き交うコンクリートの街にも春は来る。なにか健気な早咲きの桜。

いよいよ、マスクの着用が緩和される。
そのマスクの着用について、こんな見解が報道された。

「マスクを着用しなくてもよいこととすることも考慮されうる」

これは卒業式でのマスク着用を巡り、新型コロナウイルス感染症対策分科会の13人の専門家が、この2月8日に公表した見解の一行だ。
この文章を読んで、一瞬、マスクを着用しなくていいのか、あるいはやはりした方がいいのか、どちらなんだ?と迷った人がかなりいたはずである。

「マスクを着用しなくても良い」だけならスッキリするのだが、そこに「とすることも考慮する」と続いているから、これは着用することが原則で、例外的に着用を認めてあげようと言っているのではないか。さらにはわざわざ、「考慮される」ではなくて「考慮されうる」なのだから、そう考えてもかまわない、許す、といった感触もあり、だとすると、どこか条件付きのようでもあり、要するにどっちなのだろう、と、あちこちに揺さぶられてしまうのである。

どうしてこんな文章になってしまったのだろう。
新型コロナウイルスの感染対策の専門家の人からその内実を伺ったことがあったが、専門家たちは長時間、ほとんどありとあらゆるデータと視点からの議論を重ね、その結果がこの見解になったというか、ならざるを得なかったというのである。エビデンスに忠実であろうという苦渋の表現でもあるのだ、と。

この3年間、私たちはこれまでにない体験をした。せざるを得なかった。三密の回避もあり、そしてマスクの日常である。それを成り立たせたのが感染予防であり、そのための専門家たちによるエビデンスのある情報提供だった。
思えば、この3年間ほど、「エビデンス」という聞きなれない言葉が暮らしの中に入り込み、規定した時期はなかったろう。私たちの異体験とは、エビデンスに基づく行動というものに縛られた日常にある。自分の暮らしは自分で裁量できず、エビデンスに基づく感染対策に叶うかどうかを問われ続けたのである。
ところが、ある日、3月13日をもって、それが決壊する。ベルリンの壁のように。
先の専門家の見解を受けて厚生労働省は次のように告知した。

令和5年3月13日以降のマスク着用の考え方について。
<お知らせ> 令和5年3月13日以降、個人の主体的な選択を尊重し、着用は個人の判断に委ねることになります。(厚生労働省HPより)

いきなり個人の判断に委ねられてしまっては、戸惑う声が上がるのも無理はない。
個人の判断と言っても、多数がマスクしている中で自分だけマスクを外すわけにはいかない。学校や公共の場面では、個人の判断では混乱が起きかねず、やはり何らかの指針は必要だろうという論もあった。

思えばこの3年間、私たち個人の判断は停止させられていたのかもしれない。あるいは奪われていたと言ってもいい。私たちの判断は、感染対策という専門家のエビデンスに基づく判断に委ねられていた。そのことで、確かにこの国の感染対策は功を奏したところがある。
しかし、元々の個人の判断の脆弱なところに社会の同調圧力がのしかかって、お上の声になびいただけだったのかもしれない。

マスクの着用緩和の見解文のわかりにくさなど、ネット上ではとかく政府のやることをクサすことで鬱憤を晴らしたい気持ちはわからないでもないが、厚労省の告知にある「個人の主体的な選択による個人の選択」については、私たちの側でもっとまともに取り合った方がいい。

そもそも、「個人の主体的な選択と個人の判断」については、大切な私たちの側の主体であり権利である。これまでの一律が異常だったのである。その一律が外されて、個人の判断になった途端、混乱するので、これまで通り決めてくれ、というのはどこか筋違いだ。

個人の判断に委ねられる、ということは社会全体を視野に収めた時、さまざまな課題が浮かび上がる。それは私たちは、果たして「個人の判断」を持っているのか、ということである。誰かの判断によって過ごしてきた3年があり、誰かの顔色で判断しがちなこの風土で私たちは、個人の判断をどれだけ実行できるのだろう。

マスクの着用の緩和は、確かにさまざまな場面で混乱を起こすだろう。しかし、そのことは私たちが引き受けなければならないことではないか。
マスクを外している人がいて、マスクをつけた方がいいと判断する人がいる。あるいはその逆の状況がある。こうした場面がこれからあちこちで起こるだろう。悶着も起こるだろう。小さな諍いだってありうる。
そこから始めるしかないのではないか。

私たちが標榜している共生の社会、多様性の社会とは、それぞれが異なる価値観を持ち、異なる判断をする人々の集合である。
みんなと同じでなくてもよく、一人ひとりが自分でいられ、その集合がそれぞれの輝きを生む、そのような社会へと、自分の判断と他者の判断とを対話させ、新たに歩み出す機会が来たのである。マスクの着用緩和は、私たちへの問いかけだ。キミたちの主体的な選択と判断は通用するか、と。

それともやはり、言われているように、混乱するので明確なメッセージが必要だとするなら、それは誰が出すのだろう。やはり、お上の声が必要で、大きな判断がなければならないのだろうか。私たちが求めているのは、権力の判断なのか。

最近私はどうも気になる風景がある。公園や遊歩道、マンションの規則などにやたら禁止項目が増えていることだ。地域社会の中の譲り合いだとかお互い様に取って代わって、「禁止」が目立って増えているような気がしてならない。それはどうも個々人や地域住民の判断に委ねるのではなく、大きな判断力の行使、権力を誰もが望んでしまっている光景のようでもある。
それはコロナの日々がもたらしたもうひとつの感染というべき深い傷かもしれない。

今、マスクの着用緩和で、世間の気分はこのコロナのひとつのフェイズを乗り越えようとしている。しかし、この瞬間でも医療や介護の現場の人々は、土俵際でつま先立つようにして懸命に取り組んでいることを忘れてはならない。暮れも正月もなく、彼ら彼女は医療マスクを身につけ、十全な感染対策の中に身を置いて医療やケアにあたっている。
ここにあるのは、「病院や介護施設の高齢者はこの事態に逃げることができない。だとしたら、現場の私たちが逃げるわけにはいかない」とする現場の個人の判断の集積だ。

おそらくこれからも感染の第9波は避けられないと言われる。
その時に私たち個人の判断というのが、感染対策の大きな備えになるほどの力になってほしい。そこには、専門家のエビデンスある情報の提供があり、私たちはそうした確かな情報に基づく個人の判断の訓練をしていく。専門家と生活者との間でのエビデンスの共有はもっと敷居低く考えられていい。
そうしたことどもが積み重なって、感染対策の新たな社会システムが浮かび上がる。それは個人の判断が個人の域を超えて社会の判断として機能する時代の幕開けである。

イタリアのベローナ地方の古い言い伝えに、「扉を閉じた時、大きな扉が開く」というのがあるそうだ。
元々は、それまでの自分の生き方を閉じるようにして転換した時、やがてより広く大きな自分の人生が開けるという決断の力を伝承する言い伝えらしい。

今私たちは、マスクの着用の緩和という区切り、ひとつの小さな扉を閉じようとしている。次の大きな時代の扉は開くのだろうか。
扉を閉じた時、大きな扉が開く。

|第239回 2023.3.1|

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