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認知症基本法を「自分ごと」に

コラム町永 俊雄

▲2017年2月のイギリス大使館公邸での認知症セミナー。セミナーは「認知症はEVERYBODY’S BUSINESS」と始まった。下段は参加した私や丹野さんたちとの公邸でのスナップ。

共生社会の実現を推進するための認知症基本法ができたことの端的な役割というのは、「認知症」を私たちの暮らしの「現場」に置いたことです。これまでとかく医療と介護と福祉の中にあった「認知症」が、私たち誰もが生き生きと暮らすことができる「共生社会の実現を推進するため」と、私たちに手渡されたのです。

で、手渡されたのはいいのですが、どうも私たちの側で若干持て余しているようなところがあります。それはなぜかと言うと、今、各地に認知症基本法をめぐるイベントや講演が開かれていますが、その多くは条文の解釈やそのなぞりで語られ、私たち生活者の側の実感につながる語り口を持っていないからです。暮らしの実感にどこもつながらないような説明ばかりが充満しています。

だからこの稿では、斬新にも(自分で言うな)生活者主体、つまり地域の側から、これまでにない認知症の捉え直しを試みます。
これまでの「認知症」は固定されたイメージで語られすぎています。語尾がいつも「べき」と「ねばならない」で締めくくるような語り口です。

もっと柔軟に暮らしの中の、「認知症」をフツーに語る事がなぜできないのでしょう。語る側にどこか間違ったことを言ってはならない、と言う怯えがあるのかもしれません。
しかし、私たちの日常は学ぶことができる可塑性を持っています。暮らしが継続していくのは、そうした学びと修復があるからなのではないか、まずはそこを信じることです。

そうした暮らしの視点からすれば、すでに認知症の捉え直しが始まっています。
かつての医療や介護の視点はいってみれば「認知症を見る」ということでした。これはその専門性からすれば当然なことではあっても、どうしても疾患としての認知症に傾きがちです。

そこに認知症の当事者の発信が新たな視点をもたらしたのです。
それが、「認知症から見る」ということです。「認知症から見る」というのは、認知症の人とともに、この社会を変更可能なシステムと捉えることです。幅広い共生のソーシャルアクションにつながることになります。丹野智文さんが出した著のタイトルが、「認知症の私から見える社会」となっているのは端的にそのことを語っています。

「認知症から見る」といった視点の転換は、認知症を対象化したり問題化するのではなく、自分を起点とする「自分ごと」につながります。
いうまでもなく、「認知症とともに生きる」ことには、私たち一人ひとりが、認知症を「自分ごと」として内面化できるかが大きな問いかけとなりました。

では、そもそも認知症を「自分ごと」とするって、どういうことでしょうか。
「自分ごと」ってあちこちに顔を出しますね。もともと出始めは、2017年の厚労省が打ち出した「地域共生社会」ビジョンの中に「我が事・丸ごと」といった妙に砕けた呼びかけとして盛り込まれたのが始まりと言っていいでしょう。

でもその時の「我が事」、つまり「自分ごと」ですが、多くの識者はなぜか「他人事」で語っています。
社会保障財源が底をついたから、しゃあない、生活者の側の「我が事」、つまり「自分ごと」に丸投げしちゃお、と言うための論調としか響きません。

だから、これは前回のコラムにも書きましたが、「認知症は誰もがなりうる。なので自分のこととして考えましょう」と「他人事」のように言われても、すんなりとは受け止められないのです。
そこには、世の中の「認知症になると破滅的なことになる」というのが暗黙の了解として潜んでいます。
おまえも認知症になるんだぞ、と脅しをかけて、だから「認知症にやさしい社会」にしましょうというのは、前提の脅しとしてのネガティブな認知症観と、そこに接続させた共生モデルとがねじれています。「共生社会」は、恐怖システムで人々を震え上がらせて実現するはずがありません。

多くの人が、認知症を「自分ごと」として捉えることを、自分が認知症になることを引き受けることと考えます。自分が認知症になっても、うろたえずそのことを受け入れて、困ったことには支援を求め、できることは自分の意思で選択と決定をし、自分らしい生活を送ること。それが「自分ごと」である、と。素晴らしいと思います。
でもこれって、無理がありませんか。

このほとんど模範解答のような見解の出所は、認知症当事者発信のパクリです。しかし、当事者の発信する認知症は、そのまま一ミリの余地なく自分ごとなのです。自分自身が認知症と診断され、絶望と不安と涙の中から懸命に「自分ごと」とする以外に、自分の新たな人生を取り戻すすべがなかったのです。

今、ここで語ろうとしているのは、まだ認知症になっていない私たちの「自分ごと」です。
私たちは「自分ごと」を自覚的に獲得しなければならない。それは、認知症当事者の自分ごととは大きな違いがあります。その違いこそが、実は共生社会を生む活力なのです。「共生社会の実現」は、認知症の当事者と同化する事ではありません。

認知症を差別や偏見を持たずに自分ごととするのは、確かに正しく立派だし、そうありたいとは思いますが、そうした際立った人格に変貌することでしか「自分ごと」にできないのなら、やはり、この社会のネガティブな認知症観を変えていくのは現実的ではないようです。

だって、私にしたって、認知症にいささかの偏見や差別は持ってはいないつもりですが、それでも、じゃあ、すすんで認知症になるか(こうした設定はありえないのですが)、と問われれば正直たじろぎます。たじろぐ私は、非難されるのでしょうか。それとも、そうか、やっぱりおまえもか、とどこかホッとされたりするのでしょうか。

要するにこうした文脈で「自分ごと」を探り当てるのには、無理があるのです。
それは、ひたすら「認知症を見る」ことにこだわってしまうからです。ここでは、二重に「認知症」を排除しています。あなたのなりたくないとする本音を否定し、そう考えようとする自分をも否定します。
まずは「認知症になりたくない自分」を受け入れることから「自分ごと」への道筋を辿ってみてはどうでしょう。「自分ごと」とはもっと思い悩んだり、迷ったりすることがあっていいはずです。そのプロセスが「自分ごと」をあなたの中に植え付けていきます。

認知症の当事者もまた、診断された当初は自分の認知症を徹底して否定したのです。そして否定してもどうしようもない自分自身の絶望に向き合うことで、「なりたくなかった認知症」を自分ごとにしたのです。

これまでの「認知症を見る」は他者を見る視点です。対して「認知症から見る」という視点の持ち主は、あなた自身であるはずです。あなたを「主語」として見る社会です。ここに初めて「自分ごと」が浮き上がるのです。
さて、それではその「自分ごと」とは、社会にどう機能するのか、小さく歩を刻むようにして次に進みましょう。

「自分ごと」が言われたのは、2009年のイギリス認知症国家戦略で打ち出された「Everybodys Businessとしての認知症 」からだと言われます。
「Everybodys Business」は直訳すれば「みんなの仕事」となりますが、この訳としては「誰もに関わること」があてられています。
「誰もに関わること」、それが「自分ごと」につながっています。認知症に関して言えば、認知症は誰もがなりうる、だから「自分ごと」である、と。

でもこの「Everybodys Business」には、もう一つの意味があります。私はこちらがとても大切だと思っています。それが、「誰もが関わること」です。
「誰もに」と「誰もが」のたった一文字の格助詞の違いで、この社会が変わるのです。

「誰にも関わること」としての認知症。
「誰もが関わること」としての認知症。

どちらの言葉も大切な要素を含んでいますが、見方によれば前者は認知症への怯えを生み、対して後者の「誰もが関わること」の能動の言葉は、認知症基本法の「共生社会の実現を推進するため」のこれからの私たちの一歩につながります。「誰もが関わること」、それが「自分ごと」です。

認知症基本法の中の「共生社会の実現」や「基本的人権」を力に満ちた主旋律とすれば、そこに底流するオブリガード(副旋律)として絶えず奏でられているのが「自分ごと」なのです。
「自分ごと」は、自分を変えることにつながります。「自分ごと」とは、畢竟「自分とともに生きる」ということでもあるからです。

「共生社会」とか「認知症とともに生きる」というのは必ずしも「良いお話」として与えられているわけではありません。私たち一人ひとりの「自分ごと」があちこちに蛇行したり、ぶつかり合ったり、失敗したりしながらそこに向かって歩みを進めていくことの道筋が共生社会なのです。
大事業と考える必要はありません。人が生まれ、育ち、暮らし、そして亡くなっていく、そのすべてが「自分ごと」です。うーむ、やっぱり大事業かもしれない。つまり、自分ごとは私たちの基本的人権です。
だいじょうぶ。そのためにご近所だとか、仲間だとか、認知症の隣人のいるまちがあるのです。
社会を変えるというのは、実は暮らしの中で汗を拭い暮れてゆく空を眺める一人一人の、それぞれの「自分ごと」でしか動かないと思います。

一人の百歩より、百人の一歩

|第294回 2024.9.25|

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