認知症EYES独自視点のニュース解説とコラム
  • くらし

認知症国家戦略が問いかけるもの

コラム町永 俊雄

この1月に認知症国家戦略が発表された。なんせ、国家戦略である。その大げさな響きもあって、どうも馴染めないところがないではない。でもね、この「戦略」をどうとらえるかは、この社会のこれからをどうするかに深く関わる。
これまで国が政策、施策として打ち出すものは、緻密に制度を張り巡らし、公平平等を図り、効果の程を斟酌し、その裏付けとしての予算をそれなりに細かに弾きだしての施行となる。対してサービス受給の側の私達としてはそれが自分の暮らしをどう改善してくれるか当然期待するのだが、往々にして「チッ、まったく」と嘆いたり、「冗談じゃない、ちゃんとやってくれ」と声を上げるわけだ。メディアもまた当然ながらその政策の不備を突く。政策などを巡ってはこうした健全な検証は欠かせない。

ただね、「国家戦略」というものの本来の性格はそれとはかなり違うのである。詳しくは、このドット・コムのウェブサイトの中の「イギリスの認知症国家戦略」のリポートをトレースしていただければ浮き上がってくるのだが、要するに国から人々への問いかけなのである。イギリスの場合、それをまずeverybody’s business(誰もが関わること)と宣言し、イギリス国家戦略策定者、マンチャスター大学のバーンズ教授とのインタビューで、彼はこう答えた。
「国家戦略はこれまでの上から下への方向性とは違い、なるべくニーズに近い下からの声を反映させる仕組みです。だから国民誰もに声を上げて欲しいのです」

遅まきながら、世界一の認知症国家である日本もこの「国家戦略」を打ち出した。シニカルに見れば、認知症700万人時代の到来に国はいわば匙を投げるように課題を国民に投げ出した、と言えなくもない。
しかし誰もが認知症になる時代にそれぞれの「自分らしいくらし」を一律の制度でくくれるはずもないのである。
別の側面から見ればようやく「福祉」の主体が生活者の側の手に移ったという見方も出来るはずだ。福祉が上からの画一的な押し付けの「誰かがやってくれること」ではなく、私達がこう暮らしたいという地域、社会の策定に関わることになる。もちろん、国の公的責任を手放すことなく手元に引きつけつつ、私達が、私達自身の未来に声を上げるということだ。そのための議論と活動のための枠組みと問いかけが「国家戦略」なのである。
しかし、日本社会は封建社会から成熟した市民社会を経ずして一気に大衆化社会に突入したと言われ、こうした社会参加のプロセスに馴染んでいない。難しいところだ。しかし、少子超高齢社会を考えた時、こうした生活者の合意プロセスの中でしか新たな社会システムは生まれないだろう。

今回の認知症国家戦略の柱のひとつが、「当事者性」だ。認知症施策の全てのプロセスに認知症の当事者、家族が参加することが盛り込まれている。誰もが認知症になる時代の、未来と希望を、私達がどう描けるのか。
「当事者」をキーワードに全国で新たな動きが始まっている。

| 第17回 2015.3.13 |

この記事の認知症キーワード