▲真夏の空に湧き上がる夏雲は、若さの盛り。夏雲も対話しているようだ。若い人の声に耳傾けるための夏休みシリーズの対話篇、その2弾!
「こんにちはー、お邪魔します」
「おお、暑い中よく来たね。久しぶりだ。あの勉強会以来かな」
「これ、母の手作りのクッキーです」
「へえ、手作りとは嬉しいね」
「母は若いときのマチナガさんをテレビで観ていて、何か頼りないところが好きだったそうです」
「なんだそれ?」
「ファンだったって。よろしく言ってました」
「ふふ、惚れてたな」
「え、なんですか?」
「なんでもないなんでもない。コーヒー淹れよう」
「今日は、マチナガさんに聞いてもらいたいことがあるんです」
「恋愛相談だとか人生相談はお断りだぞ。恋愛経験、全戦全敗。迷いっぱなしが人生だ、というのが私のキャッチフレーズだからな」
「そんなの、わかってます。
そういうことではなくて、これ、私にとって最近とても大切で気がかりなことなんですが、友達に言っても誰も取り合ってくれないんです。「なに言ってるの」とか、「どうしたのよ、いきなりぃ」とかで、そもそも相手にしてくれない。
で、これは私のどこかがおかしいのかと思って気にしないようにしたんですが、そうしたら余計気になってしまって」
「ふーん」
「ふーん、ってやっぱりマチナガさんもバカにしてるんだ」
「いやいや、そんなことないって。大体、まだキミは何も話していないじゃないか。
こういうことはね。本人から話し始めなければダメなんだ。
私はね、こういうことにすぐ前のめりになって、「ふんふん」といかにも親切げに相談相手になることはできないんだ。大人はいつも若い人に対してそういう関係性を構築して、無意識ながら優位に立とうとする。支配者たろうとする。
私は、大人であることとは、年齢に関係なく相手に敬意を持って対等に接することなのだと思っている。それを私は、「ケア」の仲間から学んだんだけれどね。
それにさ、キミは「聞きたいこと」があると言いながら、なかなかそのことを私に話そうとはしなかった。それはね、どこかに大人に対する不信感があるのだろうし、小出しにしながら私が果たして相談するに値するかを値踏みしていたんだな。きっと。
それはたぶん、正しいふるまいだ。それはね、大人の支配に抵抗するようにして、自分を守ろうとしたのだな。
キミはきっと小さな時に、両手をギュッと握りしめ、こぼれ落ちようとする涙を必死にこらえて大人に向き合った経験があるに違いない。
何かを言い返したいのだが、もちろんそんなこと言っても負けるに決まっている。ただ、目の前の大人、教師だったか、親だったか、誰かであったのか、その大人に向かって、心のどこかで「私はワタシ」と一歩も後退りすまいとして立ち続けたのだ。もちろん状況は違っても、その類いの記憶があるのではないかな」
「・・・・・・」
「・・・・・ おお、コーヒーができた。お母さんのクッキーをいただこうか」
「・・・あのう、私が話したいことって、私の「憧れ」や「夢」や「希望」がどこかに行ってしまったことなんです。
自分でも上手く言えないんですが、今の時代って「憧れ」や「夢」や「希望」って語ることができないじゃないですか。それってどうしてなんだろうって。
じゃあ、私の「憧れ」ってなんだろうと思っても、これが思いつかないんです。
もちろん、私だって「憧れ」や「夢」や「希望」に満ちていたのに、それが全部色褪せてしまったんです。
以前だったら例えば、素敵な恋人と湘南の海をドライブして、夕陽が沈むまで海岸で肩寄あっているのが「憧れ」だったはずなんですが、でもね、それって「私の憧れ」ではないことに気がついたんです。
これって「誰かの憧れ」に憧れているだけだって。
「夢」もそう、「希望」もそう。
私たちの暮らすこの社会って、「憧れ」や「夢」や「希望」を失った世界なんじゃないですか。それってとても不安な感じがしてならない。
マチナガさんはいつも、地域福祉や社会福祉のことを語っているけれど、本当は、こんな心が空っぽな社会の方がはるかに深刻なのに、なぜ誰も気づいていないのでしょう」
「ふーむ・・・・
なるほどなあ。おそらくキミの感性ならではで、この社会の本質的な亀裂にタッチしているような気がする。
でもこういうキミのやわらかな感性に対してなにごとかを言うのはとても難しい。
私がなにかを語ることができるか、その資格も自信もないのだが、たまたまさっき、キミは両手を握りしめ立ち尽くすようにして大人に向き合ったことがあるのではないか、と語ったよね。
あれは成長のひとつの階段なんだ。幼な子から少女へ、そして大人へとその階段の一段なのかもしれない。
大人になるのは物哀しいものだな。
夏空にムクムクと湧き上がるような「憧れ」や「夢」や「希望」を振り捨てるようにして誰もが大人になっていく」
「そんなの、ヤダ」
「おまえさん、駄々っ子か。
まあ、気持ちはよくわかる。子供と大人の中間に「青春」と言ういたましいような彷徨う季節がある。成長というのは幼子の段階では誰からも健やかな祝福で語られるが、青春では、自分で自分を育てなければならない。
大人になるというのは、世の中の現実にたちまち絡みとられることでもあって、そこでジタバタする。でもそれが自分で自分を成長させることになる。
おそらくみんなそうだよ。特に「人間」に接する人ほどその振幅が大きい。ケアや医療や福祉に関わる人たちはみんなそこでもがきながら、しかしそのことで前に進んでいる感じだな」
「話がズレてるわ。私は、今の社会に「憧れ」や「夢」や「希望」が失われている現実を話しているの」
「いやいや、ズレてはいない。「憧れ」も「夢」も「希望」も失われてはいないぞ。
確かに福祉に関わる人の中には「寄り添う」という言葉が嫌いだという人も、実は多い。
「希望」がイヤだという人もね。それはそこにまとわりつく虚飾を嗅ぎ取っているのだ。
「希望」と言えばたちまち未来は拓けていくとするようなキラキラ感がイヤなんだ。何か現実を誤魔化すために使われているとね。
でも、現実にがんじがらめに絡み取られてしまっている中で、そうした人々が「憧れ」「夢」「希望」を封印するのは、実はそうした言葉をもっとも誠実に読んでいるからだ。
誰かの「希望」に逃げない。私の「希望」を創る。こぶしを握り締め、現実の前に一歩も引くことなく立ち続けるようにして。
クリスティーン・ブライデンは、希望についてこんなふうに記しているんだな。
希望とは、今日が最高の一日であるようにすること。今日が最後の一日かもしれないから。
ここの「希望」をどう感じ取るかな。
この希望はクリスティーン自身が、深い絶望の中から掴み取ったものだ。生きること、存在することとしてのギリギリの「希望」と言ってもいい。
何か粛然とするよね。
でもね、別に「憧れ」や「夢」や「希望」は、力みかえって語ることはない。ちっぽけな「夢」や「希望」を語るのは楽しいよね。言ってみれば、一鉢の草花に、陽をあて水を注ぎ、花ガラを摘むようにして、自分の「憧れ」を育てていけばいいのさ。やがて鮮やかな花々がきっと咲く」
「ちっぽけな「憧れ」でいいんですか」
「全く構わないさ。そんな風に「ちっぽけ」かどうかを気にすること自体が、自分の「憧れ」を他人の評価で測っている。壮大な「憧れ」のほうがよっぽど嘘っぽいぞ。ちっぽけな憧れの双葉の芽を大きく育てられるのはキミだけだ」
「私、思ったんです。「憧れ」や「夢」を語ることって、自分を語ることなんですね。
この社会には「憧れ」も「希望」も居場所がなくなってしまったと、私言いましたが、それって私たちが「夢」や「希望」を語ることをやめていたからかもしれない。
たしかに、この社会が私たちの「夢」や「希望」を失わせたところもないわけじゃない。
けれど私たちの「憧れ」や「夢」や「希望」には、力がある。社会を変えられる。そう思えてきたんです。
マチナガさんが言ったように、拳を固め、この社会の現実の前にすっくと立つわ。そのためには私の「憧れ」や「夢」や「希望」が必要なんです」
「力強いなあ」
「私にとって、「憧れ」や「夢」や「希望」を語る、それって未来の自分との対話なんじゃないでしょうか。
自分がこんな風でありたいと未来の自分に語りかければいいんだ。
みんながそんな風に未来の自分に向かって歩み出せば、それって、いつもマチナガさんがしかめつらしく語る「この社会はどうあったらいいのか」より、ずっと私たちらしい気がするわ」
「しかめつらしくて、わるかったね。
でも本当にそうだ。キミの、「憧れ」や「夢」や「希望」が失われた時代ではないか、という指摘には、まさに死角を突かれたな。キミ達の抱く「憧れ」などが語れる社会になっているのか、というのは確かな社会指標になる。
まず一人ひとりの想いや願いから、自分を語り、社会を語り合う。その視点が社会福祉や地域福祉には、すっぽりと抜け落ちていたのだ。
いつも専門家的な発想で、地域や住民と、匿名で一括りにする単語が飛び交うだけでは、「憧れ」も「希望」も振り落とされるばかりだ。キミ達一人ひとりの感覚から語り起こす「憧れ」の社会はとてもみずみずしい。若い世代が描く新鮮で弾力ある社会の風景だな。
いや、いいことを教わった」
「えへん」
「おまえなー。そうだ、今思い出した。井上陽水の「少年時代」には、「あこがれ」と「夢」が重要なモチーフとして歌われているぞ。
まあ、陽水は歌詞自体が多義的で、メロディーラインにのせたときの彼独自の世界観を歌うから、あまり言葉自体を解説しても意味はない。
でも、「誰のあこがれにさまよう」とか、「夢はつまり 想い出のあとさき」といったフレーズの繰り返しには、「少年時代」というタイトルと合わせると、少年期から大人へと歩み出すときの喪失感や不安感が滲んでいるなあ。
陽水は、直感的に「あこがれ」や「夢」のはかなさと、それだからこそのかけがえのなさを歌ったんじゃないかな。
「夏が過ぎ、風あざみ」、不思議な寂しさと拳握りしめる決意が、ここにあるかも。この季節、一度じっくりと聴いてみるといい」
「私、井上陽水のこと、あまり知らないの」
「えっ、そうなんだ。言われれば、90年代だものなあ。
そうだ、お母さんに聞いてみたらいい。熱く語ってくれそうな気がする」
「マチナガさんて、結構、古いヒトなんですね」
「もう帰っていいぞ」