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認知症の「本人ガイド」が指し示すもの

コラム町永 俊雄

▲ 「本人ガイド」は、この世間、地域、そして社会全体への当事者からの総括的なメッセージだ。それは同時に地域共生社会への格好のテクストにもなっている。「認知症」そして「超高齢社会」は、今や社会の側の成員がどう一歩を踏み出すのか、そのことでしか動かない。

認知症の「本人ガイド」の公開イベント(JDWG・日本認知症本人ワーキンググループ主催)が6月9日に開かれた。
認知症の当事者誰もが経験することの一つが、診断されて最初に接する情報がネガティブなものばかりだったということがある。診断された不安の中で本やネットで接する情報は、さらに大きな不安に突き落とすようなものばかりだった。
「何もわからなくなる」「やがて寝たきりになる」、と。

そんなことはない。認知症になっても「希望と尊厳」を失わずに笑顔で暮らすことは可能なのだ。だったらそうした情報は自分たちで発信していこう。
「本人ガイド」は、そうした認知症当事者の経験と思いをより合わせてできた。

会場の国際医療福祉大学赤坂キャンパスは満員の聴衆だった。その日は全国から20人を超える認知症の本人が集まり、中にはひとりで新幹線で駆けつけた本人もいた。
そんな「希望の発信」にふさわしく、公開イベントは本人座談会、リレートークと認知症の人たち自身の言葉が、聴衆の共感に満ちた思いに包まれて進行していった。
しかし、同時にこうしたイベントのその時のなごやかな親和性に、「ヨカッタ、ヨカッタ」で終わりではなく、その意味や意義をどう捉えるかを確認することも必要だろう。

はるかに若い時、海外を放浪していた中で、街角の地図に赤い矢印で「you are here」と現在地が示され、それは見知らぬ世界の茫漠とした不安の中の自分に、何か確定的な方向を示し、そこから新たに歩み出すことへの承認にも思えたものだ(スマホもGoogleもなかった時代だ)。

「you are here」あなたはここにいる。
「本人ガイド」は、これまでの認知症をめぐる時代の流れに、一つの鮮やかな赤い矢印、you are hereがクッキリと穿たれたイベントだった。

では、私たちは今どこにいるのか。
これまで、医療、ケア、家族、支援者などによって語られてきた「認知症」は、当事者自身の言葉で語られるようになり、それは当初は小さな関係者の中の発信だったのが、次いで当事者自身が語り合う場となり、それは当事者のワーキンググループの結成となり、相互のピアの力はやがて社会に向けられ、認知症の人の踏切事故裁判や運転免許をめぐる提言をし、やがて世間に踏み出すようにして、ブックフェアの原動力となり、そして今回の「本人ガイド」にまで積み上がったのだ。ここに至るまで、当事者達が困難と試行錯誤と、確信と希望を重ねてようやくの「you are here」なのだ。

「本人ガイド」の正式名称は「本人にとってのよりよい暮らしガイド」で、そのサブタイトルが「一足先に認知症になった私たちからあなたへ」である。
穏やかな語り口ではあるが、ここにはまだ認知症になっていない人々へ、同じスペクトラムの当事者性への覚悟を迫る本人たちの決意が込められている。
そうした視点から読み込めば、「本人ガイド」は、実は、本人ガイドが機能する社会になっているのかという同時代を共に生きる認知症の人からの検証要求であり告発でもある。

このイベントが指し示したのは、紛れもなく「認知症になった私たちからあなたへ」というメッセージで、今度は、まだ認知症になっていない人々が、自身の「認知症観」を語る段階に入ったことを「本人ガイド」、という赤い矢印で時代に刻み込んだのだ。You are here あなた方はここにいる。

確かにあの会場は、いつにもまして心地よい調和と達成感に包まれた。
が同時に、あの会場に来られなかった本人がいること、一歩会場を出れば無関心の大きな層がうずくまっていることに、誰かが気づいていなければならない。
社会総体を見れば依然として、認知症の本人と、そうでない人々の間には厚い壁が立ちふさがっているのが現実である。

「本人ガイド」はまた、その壁の存在を示し、どう壁を乗り越えて新しい時代に進むのかも指し示していると言えるだろう。

そしていうまでもなく、その壁を打ち崩すのは、まだ認知症でない私たちの側の役割なのである。

▲ イラストや写真がふんだんに載せてあり、わかりやすく親しみやすい体裁だ。このあたりの配慮も、暮らしの中に届けという実は当事者たちの切実な思いの結実だろう。若い世代、地域で「啓発キャンペーンDVD」とともに活用してほしい。

|第72回 2018.6.18|

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