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よい年になりますように 〜福祉を発信する私たち〜

コラム町永 俊雄

▲あけまして2023年、干支は卯、うさぎです。二兎を追うもの一兎をも追えず、とか。でも二兎を追ってもいいじゃないか。そんなふうにも思いながら、皆様今年もよろしくお願いします。

みなさん、明けましておめでとうございます。
本年も、良い年になりますように。

例年の決まり文句である。
でも、決まり文句というのは、ある意味で長い歳月の中で洗い晒されて生き残った言葉だから、なにかの言霊を宿しているに違いない。
列島の津々浦々で、年改まった新鮮な刻限に誰もが「良い年になりますように」とつぶやき、祈り、盃を傾け、幼な子の頭に手を乗せ、長く寄り添った配偶者に温かなまなざしを向ける風景は、私には、どこかかけがえのない祝福のように思える。

「良い年になりますように」、この言葉には暮らしの中に連綿と受け継がれてきた庶民の想いが込められている。自分ひとりの幸福などあろうはずがない、衆生誰もが幸せになりますように、良い年になりますように、と、誰もの幸福を願い、祈りとしたのだ。

しかし、近代の合理主義からすれば、それは非合理な言葉ということになる。
ケッ、良い年に、なんてなんの根拠があるのか、甘いな、ただ言っているだけだろ。良い年にするための方策も無しによくもそうテキトーなことを言えるものだ、と言われればまことにその通りなのである。

でもね、「良い年になりますように」と互いに言い交わし、子どもたちにその言葉を伝えることで、私たちの共同体は、「福祉」と呼ばれるものの底力を生み出してきたのだ。
福祉の根拠であり、方策、政策、制度と呼ばれるすべての底の底に流れるのは、その時代を懸命に生きる人々の想いの集合だ。
生まれ来るいのちに、より良い社会に、と願う人々の想いから「福祉」はゆっくりと立ち上がる。そのことに祈りや願いや想い込めて互いに言い交わすのが、「良い年になりますように」という言葉なのではないだろうか。

だが、3年にわたるコロナの日々は、ボディブローのようにして私たちの暮らしの打撃となり、残念ながら現代の社会は、人々の「想い」を打ち砕き、途切れ、途絶えてしまおうとしている。
すでに旧年のことながら、去年の暮れ12月も押し迫った頃、NHKのニュースは、今年の出生数が、国の統計開始以来初めて80万人を下回り過去最小ペースであり、これは予測よりも8年早く少子化が進んでいるペースだと報じた。国は直ちに反応し、危機的な状況であり総合的な少子化対策を進めていくと官房長官が述べた。

私は、こういう事態のたびに繰り返される「少子化対策」でなんとかなるとはとても思えない。
この社会は、未来の淵に沈没していく。個が孤立し、想いが途切れ、人心も地域の共同体もちりぢりになって限りなく縮み込み、沈んでいく。
どうしてこうなってしまったのだろう。私たちの「想い」が途切れた社会とはどんな姿をしているのだろう。

あなたが何となく、小さくため息をつくときがある。絶望だとか、不幸という感覚にはほど遠いのに、一日に何度も小さくため息をつく。
「何々問題」と名付けられ、社会問題としてメディアに取り上げられ論じられることは決してないようなことどもが、実は日常のあなたを取りかこんでいる。
あなたが朝、ふっとつく小さなため息。キッチンで皿洗いの手を止め窓の向こうをぼんやりと見て、つくため息。
ネクタイを締め、スーツに腕通すときの何かしらずっしりとした重さ、そこにため息。誰かに相談したところで、なに気にしているの、誰にでもあることよ、がんばって、と言われそうだし、自分自身だってそんなに重大なことのようには思っていないのに、それにしても何度もこの、小さなため息。

ため息はこの社会のあらゆる街や窓から小さな気泡となって漂い昇っていく。
そのため息は今や空いっぱいに充満し、ずしりとこの社会を覆う薄暗く分厚い層雲となっているのに、気づく人は誰もいない。希望の日射しは厚い雲に遮られ、とても弱々しい。
あなたはその中で今日も小さくため息をつく。「あーあ」

大きな困難や不幸な事態にはニッポンの福祉はかろうじて対応してくれるだろう。しかし今のこの社会に充満しているのは一人ひとりの小さなため息なのだ。ひとつのため息は些細なこと、誰にもあることとして「福祉」をすり抜け浮遊するしかない。
結果、そのため息の総体が寄り集まって閉塞と、生きづらい社会としてひとりひとりに重く大きくのしかかってしまった。

それは、本来私たちの持っていた「福祉力」を私たち自身が手放してしまったからかもしれない。地域の中の私たちの想いが途切れるとは、こうした事態を引き起こすのかもしれない。

これまで生活者は常に福祉のエンドユーザーと位置付けられ、サービスを受ける側としての側面しか語られてこなかった。だから福祉とは、制度、政策、施策の姿をまとっていつも上の方から舞い降りてくる。誰かがやってくれることとして。
そうではなく、生活者の側を、福祉の発信者として置き直してみてはどうだろう。

生活者という曖昧で多様な存在自体が発信力を潜在させている、と私は思う。
実は生活者というのは日常絶えず福祉力を発揮、発信している。晴れ上がった朝空、ひと鉢の草花、子供のはじける笑い声。とりとめのないこと、どうでもいいような些細なこと、あたりまえの日常、そこに潜む福祉の力を拾い上げてみる。改めて確認してみる。それが一番確かな福祉の創造なのだ。

確かに私たちの暮らしは、ささやかでさしてかわりばえはしない。
その中で、子も育む親も、老いる人も病の人もそれぞれが尊いいのちを輝かせようと、取り繕ったり、ごまかしのきかない日常を笑い合い語り合い、涙ぐみ肩叩き合うようにして懸命に生きてきた。ため息に満ちた厚い雲を切り開いて降り注ぐ陽ざしのような福祉は、ここにある。

新しい年の初め、私たちはひとつのありふれた言葉に、想い込めて言い交わす。
良い年になりますように。

|第233回 2023.1.3|

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