▲認知症基本法を具体的な施策にするための関係者会議。ここでの基本計画が閣議決定され、全国の基本計画へと手渡される。下段右、前田隆行委員と堀田聡子委員と。
「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」が、いよいよ私たちの街に歩み出す。
認知症の施策をどうつくるのか、「認知症施策推進関係者会議」が6回にわたる話し合いを終えて、いよいよこの秋にも閣議決定を経て、施策の基本計画が策定される。
あなたの街に認知症基本法がやってくる、というわけだ。
私も先日、霞ヶ関の第4合同庁舎で開かれた関係者会議を傍聴してきた。
いうまでもなくこの関係者会議は、認知症基本法を踏まえて開かれている。
だから、これまで6回にわたって開かれた話し合いで、その度に認知症基本法をどう認知症施策に落とし込んでいくのかの基本計画の素案が示されてきた。
この素案は、話し合いで出た意見を勘案して、その度に書き換えられてきた。その素案の最終版である6回目の会議に配布された基本計画案資料が私の手元にある。
これを読んで、私なりに思ったことがある。それは私たちが長年、認知症当事者たちとともに市民レベルで話し合ってきたことが反映されて成立したあの「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」に、この基本計画は果たして十全に基づいているのだろうか、ということである。
もちろん、この後も閣議決定に向けて(自民の総裁選もあるので、閣議決定の予定は立っていない)、最後の関係者会議の話し合いでの文言調整がされるということだから、最終的な基本計画がどうなるかはわからない。
しかし、基本計画が決定される前に注文をつけておくのも、なんとも蟷螂の斧ほどの意味も力もないだろうが、認知症基本法は誰もの「参画」を求めている。どこかで小さな声も届いてほしいと思いながら記すことにする。
ついでに言えば、この関係者会議などの施策プロセスは公開が原則だから、以前にも報告したのだが、内閣官房の認知症施策推進会議のHPで読むことができる。
だからもしよければ、その資料の基本計画素案を参考にしながら、私のこのコラムを読んでいただければより興が増すかもしれない。
基本計画案というのは、法律の条文とは異なり一言一句をあげつらうものではない。むしろ暮らしの言葉でわかりやすいメッセージであるべきだろうから、ここでは大きな捉え方をしながら記していく。
まず、基本計画案の最初は「前文」から始まる。それはこんな項目立てから始まっている。
(誰もが認知症になりうる/自分ごととして考える時代へ)
何か随分以前から言われてきたことを改めて持ち出しているような気もしないでもないが、ここは広範な社会全体の意識への呼びかけなのだろうと自分を納得させる。しかし、私の違和感はそれに続く記述にある。
そこには、これから認知症の人はひたすら増加するという綿密な推計を述べ、そのことをもって、誰もが認知症になりうる、だから自分ごとの時代なのだ、という書き出しである。
つまりここにあるのは、相変わらずの恫喝のロジックなのである。
認知症の人はこれからも増え続ける。あなたも認知症になりうる。だから、自分ごととして考えましょう、という組み立ては以前から繰り返されている。
それはどこか、認知症の人が増え続けることをもって、人々を震え上がらせ、自分ごとへと誘引しているとしか思えない。
その底には、認知症になることが「大変なこと・イヤなこと」とするネガティブな認知症観がうずくまっている。認知症の人が増えることは、相変わらず社会の恐怖なのだろうか。どこが「新しい認知症観」なのだろう。ここに「認知症とともに生きる」はどこにあるのだろう。
いや、これは単なる私の深読みでしかないとされてもいい。
私が言いたいことは、この基本計画が、果たしてどこまで「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」の理念やその方向性を踏まえているのか、ということである。
そもそも、基本計画は、認知症基本法を踏まえての施策計画なのだから、基本法には、基本的人権を据えた人権法の性格を持つ側面があることを、具体化、実装化、全体化することが、「共生社会の実現を推進する」ことであると、基本計画の前文でキッパリと宣言しておくことが必要ではないだろうか。
不思議なほどに、この基本計画案には基本的人権の記述がない。
読み下していってようやく15ページの「4.認知症の人の意思決定の支援および権利利益の保護」の項目に基本的人権が顔を出す。しかしここでの基本的人権は、意思決定支援の根拠として記されているだけである。
そうなのだろうか。
この認知症基本法に「全ての認知症の人が、基本的人権を享有する個人」とされたことが、認知症基本法がたかだかと掲げた「共生社会の実現を推進するため」の柱であり根拠ではないのか。
「前文」というのは具体的な施策記述の前に、基本法を受け継ぐ理念を明確に共有する宣言であり、覚悟の文言といった位置付けであろう。ここになぜ基本的人権を据えての基本法であることが記されていないのだろう。
ここに基本的人権を据え付ければ、認知症の人の増加をもって、自分ごとに引き込むような姑息ではなく、認知症になろうとなるまいと、誰もが自分の意思で自分らしく暮らすことのできるひろびろとした共生社会のありようを提示できたはずだ。希望のありかを示すことができたはずだ。
認知症基本法の肝とも言える「共生社会の実現」も「本人参画」も「国民の理解」も「自己決定」もなにもかも全て、基本的人権があって初めて成り立つ。
「新しい認知症観」というのも、なぜ「新しい」のか、そこには基本的人権の裏付けがあることが、まさに「新しい」のである。これまで存在を奪われていた認知症の人々の人間回復を踏まえて初めて「新しい認知症観」と言えるのである。
すべての施策のその裏に人権を据える。そのことに触れていないのが、私にはどうしてもわからない。あるいは、こうしたことは単なる情緒として見過ごされてしまっているのだろうか。そうかもしれない。だとしたら、基本法の心は、暮らしの中に浸透はしない。
基本計画へのこうした違和感を滲ませた受け止めは、実は私だけではない。
この関係者会議には、各分野の人々が委員として参画し、参画である以上、その意見が基本計画に反映されることになっているが、慶應義塾大学教授で認知症未来共創ハブ代表の堀田聡子委員も以前の会議でこんな発言をし、それは今回の会議でも改めて繰り返し確認するようにして縷々発言した。
「改めて「新しい認知症観」を、今、言わねばならなかった背景、あるいは第3条の1に基本的人権の享有が掲げられているわけですが、これを改めて書かなければいけなかった背景をきちんと問うことは重要ではないかと思います」
「基本法が出てきた背景にある、まだまだ残念な現実についての問いを前文に明記することをぜひやっていただきたいと思います。
基本的人権の享有を今うたわねばならないのは、これまで人権が阻害されている側面があるからではないかということをきちんと書くべきではないかとも申し上げました」
全く同感である。私と全く同じ思いを発言している。
会議が終わって堀田聡子委員に賛意を伝え語り合ったのだが、認知症基本法の時代背景には、この社会もようやく権利意識を基盤とした構造に転換しなければならない時期に来たということである。
2022年に国連の障害者権利委員会から、非自発的な入院あるいは強制治療、虐待等に関して、日本政府に総括的な所見が出されている。国際的にも日本の権利意識が問われている。そこに認知症基本法が生まれたのである。
では改めて、なぜ人権の記述がなくてはならないのか。
それは私たちと私たちの社会が、かつての認知症の人、痴呆とされた人々をどう見ていたのか。そのことに、基本計画のどこにも触れていなくていいのだろうか。
認知症の人の声を聴く、ということは、そこに連なるはるかな認知症の人の声も聴くことではないのか。かつての認知症の人を収容と隔離と拘束の中に捨て置き、そうした人々の涙と無念と絶望の中から、今の私たちの認知症社会は立ち上がっている。
「すべての認知症の人が、基本的人権を享有する個人」とされた認知症基本法の基本理念は輝かしい成果ではない。私たちの負の社会史の証言なのである。ようやく今、この社会は、認知症の人の人間回復の法を獲得したのである。
今後、認知症施策のためのこの基本計画は、都道府県、市町村それぞれの基本計画策定へと手渡されるように広がっていく。
今度は暮らしの舞台で、暮らしの人々と認知症の人々が互いに参画し語り合うことになるだろう。その時、人権と認知症をどんな語り口で話し合うのか。
そして、私たちはそのことをこれからこの社会のすべての成員、とりわけ次の世代、子どもたちという未来に伝えていくのが、認知症基本法を生きる私たちの責務なのである。
いつもこの言葉に立ち返る。
「私たち抜きに、私たちのことを決めないで」
ここでの「私たち」とは、認知症の人限定ではない。共生社会の実現を目指すこの社会では当然、この「私たち」は、誰もの「私たち」なのである。
参考:内閣府 認知症施策推進関係者会議
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ninchisho_kankeisha/index.html