▲私は、専門家の「認知症」の語り口が、暮らしの言葉になっていないのは問題だと思っている。私は、おぼつかなくも、暮らしの言葉で解説や正解ではなく、対話するように語りかけたいと思っている。
今年も半分が過ぎようとしている。
認知症基本法ができて、ハテ、何が起こるのだろうと思っている人が多いような気がしているのだが、実はすでに動いている。
認知症施策推進関係者会議である。
基本法の施行を踏まえ、認知症の本人やその家族、有識者などその「関係者」を交え、基本法の目指す共生社会の実現に向けた議論を行うことになっているのだ。認知症基本法のお約束だ。知ってました?
共生社会の実現に向けて、どんな認知症施策を策定すればいいのか、みんなで話し合おうという、その話し合いが始まっている。それが認知症施策推進関係者会議だ。
で、実はすでにもう4回の会議が開かれている。直近ではつい先日、6月20日に開かれている。
こういうの、ちっとも報道されないんだな。
誰が出席してどんなことを話し合ったのかは内閣官房のHPに、3回までの議事録が載っている。(現時点では4回目はまだ議事録ができていない)
先日の4回目会議には、これまでの議論を受けて各委員の意見書が出されている。
それを読むと委員として参加した長野の認知症本人大使、春原治子さんは、会議の内容量が多すぎ、またスピードが速すぎてとてもついていけないと至極真っ当な意見を述べているし、大分の本人大使の戸上守さんは、基本計画素案には「新しい認知症観に立つ」とあるが、それがどのようなものであるのかが議論されないままで、イメージが共有されていないと指摘している。
認知症の人と家族の会代表の鎌田松代さんは、基本計画素案に示された重点目標の達成度を示すKPI(評価のための関連指標: Key Performance Indicators)への懸念を発言している。
このKPIとは、いってみれば認知症施策の効果を数値で表すもので、例えば、国民の認知症への理解度が進んでいるかどうかは「認知症希望大使を任命している都道府県の数」で見たり、認知症の人たちが、地域で安心して暮らすことができるかどうかは、「認知症バリアフリー宣言をしているか、あるいは認知症バリアフリー社会の実現の手引きを活用しているかの事業所の数」をして評価するとしている。
これに対して鎌田さんは、確かにKPIという指標は、客観性がありわかりやすい。ただし、その中身が見えない。その指標で実際にどのような地域になっているのか、どれほど理解が進んでいるのかが果たしてわかるものなのか。KPIを目的化するのではなく、地域の実際を見る別の捉え方があってもいいのではないかとその懸念を示している。
このKPIが認知症に関わることとして前面に登場したのは、あの認知症施策推進大綱だったと思う。
2019年の認知症大綱案では当初「予防と共生」を車の両輪とし、とりわけ「70歳代での認知症の発症を今後10年間で1歳遅らせる」という数値目標(KPI)が掲げられたことに対し、一部の医療者などからその実現可能性の根拠となるエビデンスもなく、また、家族の会などからは、現在認知症の人々の存在否定にもなりかねないと、メディアでの報道を中心に批判が集まったのは記憶に新しい。
このこともあってか、どうもわたしは人間の暮らしと思いを軸とする認知症施策と、このKPIという無機質な指標設定との組み合わせに違和感を持たざるを得ないところがある。
ところが、今回のこの推進関係者会議の議事録や資料に接しているうちに、私自身の思い込みに気づいた。
関係者会議のメンバーには、議事を進行する会長に粟田主一さん、そしてJDWGの藤田和子さんや家族の会の鎌田松代さん、各地の認知症本人大使、100BLGの前田隆行さんなどいずれもよく存じあげている皆さんがいる。
が、この会議は言うまでもなく、共生社会の実現を推進するための認知症施策の関係者会議なのだ。いつもの仲間内の「認知症」の集まりではない。
だから、そこには大学教授もいれば、医師会、経団連、労組、自治体の長、介護施設、ケア専門職に薬剤師や企業の人々も加わる。
当然、議論は幅広い。介護報酬の話も出れば、介護の人々の人手不足や離職の現実があり、あるいは就労や企業連携だとか、地域の福祉教育での認知症の提言も語られたりする。
私の場合、これまでともすれば同志的な仲間内での話し合いで、その練度、純度を高めてきたところがある。議論はいつも互いの了解的な基盤を共有し、そこから外れることなく言説を積み重ね、社会の頑迷への批評の鋭さを競ったりしてきた。
確かにそうした活動がどこかで時代の推力の役割を果たし、自身の研鑽にもなったところがあったと、これは参加した誰もがほのかに自負しているであろう。
ただ、時代は次のフェイズに入ろうとしている。
「認知症と共に生きる社会」とする福祉概念は認知症基本法の成立によって、「共生社会の実現」という普遍価値の構築に向け、今、広々と社会の地平に拓かれたのである。
つまりは、「共生社会を語る」と言うことはこう言うことなのだ。
関係者会議の話し合いとは、誰が正しくて誰が間違っていると言うことではなく、「認知症」への多様な価値観、異なる立場と意見を持った人々が、「認知症」を起点として「共に生きる社会」を創るプロセスに参画する。そして、そのことが共生社会の実現を推進していく。
そこにあるのは、ひたすらの「対話」である。
この関係者会議での基本計画素案の前文にはこのように記されている。
「認知症の人や家族等の参画を得て、 意見を聴き、対話しながら、ともに認知症施策の立案等を行う」
「対話しながら、共に立案する」というところに注目したい。
「対話」とは正しさを議論するのではなく、ひとつの結論に急ぐのでもない。互いを認め合い受け入れながら、対話する自分自身も切り上げるようにして変わっていく。その相互に積み重ねる対話がやがて、新しい次元へ導いていく。
共生社会の実現とは、「対話する社会の実現」なのである。
この関係者会議での基本計画は、これから都道府県や市町村での認知症施策推進計画の策定へと進んでいく。ここでは今度は、地域に暮らす認知症の人や家族の意見を聴くことが定められている。あなたの時間の始まりである。
「聴くこと」は意見聴取ではない。身近な地域自治体になればなるほど、対話になっているかどうかが問われるだろう。
国の基本計画の素案にはいくつものキーワードが埋め込まれている。
たとえば「認知症の人を主語にする」、あるいは「新しい認知症観に立つ」というキーワードなどである。
それを既定の前提とするのか、そのこと自体を話し合おうとするのかは、私の見るところ、関係者会議の委員の中ではズレたままである。だが見方によれば、そのズレがかえって前に進ませる力になるかもしれない。対話の素材になるかもしれない。
とりわけ、「新しい認知症観に立つ」ということは、十分に話し合った方がいい。
「新しい認知症観」の解釈や正解を直線的に求めるのではなく、そのことをめぐって各地で多くの人々との対話が生まれていくことを期待したい。
対話の何処かで、「認知症の人を主語」とすることが、あなたを主語とする対話に重なったり、対話する時間と空間が、「新しい認知症観に立つ」時間と空間を生むかもしれない。
共生社会とは選択肢ではない。共生社会の扉はすでに開かれている。あなたが開くのは、「対話する社会」の扉であろう。
これからだ。ここからだ。
*参考:内閣官房 認知症施策推進関係者会議
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ninchisho_kankeisha/index.html