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高齢者の運転事故を考える

コラム町永 俊雄

高齢者が起こす自動車事故が相次いでいる。事故原因のかなりが認知症の人の運転ではとされている。
年齢区分で言えば、私も高齢者だからもちろん他人事ではない。実は私はかなりのクルマ好きなのである。厄介なことにこの世代というのは、日本のモータリゼーションとともに時代を過ごしてきたから、車への憧れがそのまま青春を彩り、社会人になってからも家庭を持つか、車を持つかの選択に悩むといった人格形成につながっている。
最近では、ドライブで車を乗り回すこと自体に、地球への環境負荷の後ろめたさを感じていたところにこの事態である。
そんなこんなで、車を買い替えた。カッコいいスポーツタイプの愛車を泣く泣く手放し、最近の安全装置てんこ盛りの車にした。衝突防止装置に車線逸脱防止装置。死角に後続車がいればドアミラーに警告灯が点き、あまつさえドライバー疲労検知システムでは、疲労と判断されるや表示と警告音で休憩を促す。余計なお世話だ。ドライブで車を自在に操る楽しさが損なわれる。しかし、加齢という客観的な自分を冷静に見れば、やれることは全てやるべきだと私は思った。それはなるべく長くクルマを運転したいからだ。

今後は自動運転など、高齢者運転をめぐって技術的アプローチで運転事故はある程度は防げるようになるだろう。しかし今の高齢化のスピードはカーテクノロジーの進歩のスピードを上回る。クルマは高齢化に追いつけない。
となると現実のこの課題をどうするかということになる。そうして見るに、今出来る一番確実なことは、高齢者自身の運転の抑制ということになる。
免許更新時の検査の厳格化とか、さらには高齢者の免許の自主返納などが最近言われている。そのことについて異論はない。高齢者が引き起こす事故によって犠牲者が出ることはまずもってあってはならないし、とりわけ、小学生が被害者となってしまうことには言葉もない。

しかし、一方でこの論調が、高齢者を一括りにして、運転の抑制を一直線に論じていることに微かな違和感を覚えざるを得ない。どこかこの論調の延長線上に、「認知症」と「危険」とが張り付いていくような危うさがないだろうか。あるいは、高齢者に運転をさせてはならないと言った世間の空気が醸成されているような。

今、高齢者の自立支援が言われている。医療やケアの対象に高齢者を閉じ込めるのではなく、地域での自分らしい暮らしを支援するということである。そこでは身体的自立だけでなく、精神的、社会的自立があげられている。
精神的、社会的な自立のために何が必要か。それは多様だ。人生の生きがいややりがいといったものは誰かから与えられるものではない。その人自身の持つ「自分らしさ」の表明だろう。これからの高齢者はより多様な自立像を提示する。オシャレであったり、就労であり旅であり趣味であったりする。
クルマもこれからの世代の高齢者にとっては自立支援なのである。クルマを取り上げられることは、自分の暮らしを奪われるに等しいと切実に感じる人も多くなる。別の視点から見れば、地方では車がなければ、高齢者の精神的社会的自立は根底から損なわれる。病院に行けない。買い物に行けない。何より、行きたいところに行けないというのは孤立と幽閉の暮らしに等しい。

何度も言うが、事故を引き起こす恐れがあっても運転させろと言うことでは毛頭ない。高齢者ができることは全てやることはもちろん必要だ。ただ、免許の返納も自主的にできる環境と世間が必要で、ゆめゆめ「自首」返納の色合いをもたせてはならない。
高齢者全体を加齢による衰えだけを前景化して、運転不適格性を問い、そして結果的に社会の成員から排除することにつながらないか。ひとくくりに、全てを高齢者の側に問題の起因と解決を押し付けるだけではこの問題の本質は見えてこない。
高齢者の起こす自動車事故を考えるとき、高齢者という個人と社会を分断させるのではなく、自立と共生をセットとして融合させていく視点が必要なのだろうと思う。

|第34回 2016.11.16|

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