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丹野智文と語り合うと、「認知症の力」が見えてくる

コラム町永 俊雄

▲2014年の認知症サミット後継イベントでスピーチする丹野智文氏。初々しいデビュー姿。下段左、サミット総合司会の町永俊雄。右、オンラインで語り合う。テーマも決めずとりとめもなく語る時間が何か、本当のことを浮かび上がらせる。

久しぶりに丹野智文さんと話し込んだ。
先日、あるラジオ番組の打ち合わせで一緒になった時に丹野さんから、今度じっくり話し合いましょうよ、と声をかけられた。いつも私の方から言い出すのに、何かあったのかなと思っていたら、実は彼が私を気遣っていたのだった。

毎週、医療や介護の専門家達とオンラインで会議を持っていて、そこに私も丹野さんも参加しているのだが、議論のあとの雑談に移った頃、私が、「コロナの日々で人と会うことが少なくなったことがここにきて、ボディーブローのように効いてきた。やはり人と会って、互いの間合いやまなざしの交差の中に身を置かないと、新たな言葉や発想が生まれないのではないか。最近ちょっと私自身、ウツっぽい気がする」とか、ぼやいたことがある。

それを丹野さんは聞き逃さなかったのである。
「どうも町永さん、ウツ状態というから(まあ、今思えばウツというより、ただ、みんなへの甘えがあっただけなのかもしれない)、それならおしゃべりしましょうよ」と、彼が声をかけてくれたのである。
丹野さんを気遣わせてしまった、というより、私の方がその気遣いが嬉しくて、いそいそとオンラインでのおしゃべりをすることになった。

せっかくなので、旧知のNHKディレクターの川村雄次氏と馬籠久美子氏にも声をかけて、何か身内同士のおしゃべりの場のようになった。
そこに行き交うのは、「だからさ」とか「それでね」といったインフォーマルで、かつての囲炉裏端の情景のような話し合いなのであった。目的も議論もなくて自由でしかしどこか真実の断片をちりばめて、親密と温もり。

オンラインというのは、全国どこにいてもたちまちつながりが持て、パルスのような情報の交換にはうってつけである。私自身も、去年からのコロナの日々の中で、オンラインで講演したりフォーラムを開いたりすることで過ごしてきた。
というより、どこかこのオンラインにせっつかれて過ごしてきたところがあるのかもしれない。
そんなこんなで、このおしゃべりの会は、思いがけないスピンオフの楽しさに満ちた。

まずはいい機会なので日常の暮らしから。
「あのさ、丹野さんはこのコロナの日々、どんなふうに過ごしてきたの」

「去年の2月頃から講演活動がほとんどキャンセルになってしまったんですよ。でね、仕事に戻ろう、と思った。自分の職場のカー・ディーラーに戻った。それも誰かに言われるのではなくて、自分から言おうと思って申し出たら、戻ってくれ、と。
あの頃は学校も閉鎖されていたから、社員のみんな、子供が家にいて大変だったんだ。だから、それなら子供を職場に連れてくればいいと提案して、一部屋を子供達の居場所にしたんですよ。小学生が主で、中学生もいたかな。
子供たちには、私の仕事を手伝ってもらったよ。ホッチキスで綴じたり、書類フォルダを整理してもらったり。
職場での私の仕事というのは、誰でもできる仕事だからね、子供たちだって上手だったよ。ある小学生から、アルバイト料は出ないの? と言われたくらい(笑)
それが2月から8月くらいまで続いた。楽しかったよ。それに私は講演が生きがいというわけではなかったからね」

認知症の人に話を聞くときに、出来なくなったことから聞く人は多い。
しかし丹野智文さんは、そうではなく、出来ることと出来ないことを聞き、それに加えて「やりたいこと」を聞いてほしいと言ってきた。
認知症の人に是非、やりたいことを聞いてほしい。認知症の人がそれに答えられないのは、その人にやりたいことがないのではなく、それを奪ったものがあるのではないか、奪ったのは認知症という疾患ではなく、支援の側や環境にそうした要因があるのではないか、と。

彼にはコロナの日々であっても、やりたいことがあった。
ライフワークのオレンジドアも続いていた。室内で開くのではなく、屋外のデッキで開き続けた。しかし、全国を見れば、このコロナの事態で行く場所も出会う人とも途切れた認知症の人にはやはりつらい日々ではなかっただろうか。

声のトーンを落として丹野さんはつぶやく。
「大変だよ。人と会えなくてしゃべることもないから、しゃべれなくなったという当事者の人もいる」

丹野智文さんの地元での講演活動には、最近変化が現れているようだ。
それは、彼が主宰するピアサポートのメンバーたちとともに講演をする。というより、メンバー主体の講演会で、丹野さんはコーディネーターでバックアップをすることが多い。
講演の依頼があれば、メンバーと話し合い、誰が行くか、どんなことを話すのかを決めていくのだという。

「だいたい、認知症当事者が3人1組になって講演する。そうすると言葉に詰まっても他のメンバーがカバーしてつないでいくので、誰もがうまく話すことができるんだ。一人でも多くの当事者の話を聞いてもらいたいし、地域の人にも知ってもらいたいのですよ」

出来ることと出来ないこと、そしてやりたいこと。

話はあちこちに飛んで、昔話。
丹野智文さん自身は、今の自分のスタートはどこだとしているのだろう。
丹野さんは、それは2014年11月のG8 認知症サミットの後継イベントでのスピーチだったという。六本木ヒルズのホールで開催された国際会議での認知症当事者のスピーチである。

この時のオープニングセレモニーで、藤田和子さんが、発足したばかりの認知症当事者ワーキンググループの代表として開会の言葉を述べた。認知症の当事者がこうした場に出ること自体が、まだ極めて稀なことだった。
そして、その日のレセプションのスピーチが丹野智文さんだった。無名の認知症当事者、丹野智文の登場と誕生。

私はサミットの総合司会を務めたこともあって、その時の情景をよく覚えている。
レセプションで各国の関係者がグラス片手に和やかに交流している中、丹野智文さんのスピーチが始まった。当初はまだざわざわしていた。
後方では、やっと初日が終わってやれやれと日本関係者の談笑が続いていた。と、そのとき、前方の海外代表の一人が振り向いて、シッ、静かに、と注意した。

やがて丹野スピーチを聴こうと人々はじわじわと輪を狭め、彼のスピーチが終わると心こもった拍手が湧き、聴衆の輪を割って退場する丹野さんに誰もが声をかけ、肩をやさしくたたいて多くの海外メンバーがねぎらった。

彼は振り返る。「何かわけわからなくて、何か話してと言われて全部自分で考えて、一生懸命話した。今はもっともっと、ずっとうまくしゃべれるよ(笑) あの時、両親が初めて私の講演を聴いたんだ。あの六本木ヒルズのすごい立派な国際会議場でしょ、両親もびっくりしていた。親孝行できたなあ」

丹野さんの言う「認知症になっても人生は続く。認知症になってあきらめるのではなく、新しい人生を作ることができる」、そのスタートがここなのだと言う。新たな人生のスタート地点を自分に刻み込んでもう7年になる。

「でもさ、ずっと同じことを言っているんだよ。いつも同じことを言っている。それでも何回も話をしてくれと同じところから頼まれている」

そして、しっかりと受け止めてくれる人が多くなった一方で、必ず同じ反応が寄せられていると彼は語る。
「丹野さんは特別な人で、寝たきりや重度の認知症の人には当てはまらない」「あんなに話の上手な人が認知症であるはずがない」

ここでは、参加した私たちも含めて、様々に語り合った。何が正しいかと言うところを超えて、こうした声の向こうに何を見るべきか、といったことを話し続けた。それはこれまでも語ってきたことだし、コロナの時代だからこそ、これからも語らなければならないことだった。

このことの見解を示すことが、この稿の本意ではない。あなたはどう考えるだろうか。
認知症の取り組みはこうした社会の中で揺り動かし前進させていかなければならない。
丹野智文さんは、こうした声にも困惑に沈むのではなく、怒り悲しむのでもなく、一つひとつ、丁寧な自分なりの考えを述べることができる。

そして今、丹野智文さんは本を執筆中である。
それは全て、この社会に向けての発信である。仮のタイトルは「認知症の人から見えるこの社会」、私には、この社会に向かって放たれた矢の一閃のようなタイトルと響く。

この本については、出版の目処がついた頃に稿を改めて存分に記したいと思うが、彼はこの原稿にはこう取り組んできたのだ、と語る。

「何度も書いては書き直してね、どうも、ある部分が気になって眠れなくなって、起き出してはその一行を書き直し、読み直しても混乱して全体が掴めなくなる時には、パソコンの音声読み上げ機能で読んでもらって納得するまで書き直す。なんか、この原稿を書くことで自分が生かされているって感じる時もありますよ」

彼はこの本には、怒りを込めて書いたところもあるし、また、勇気を奮って、思い切って書いたともいう。批判もあるかもしれない、それでも書かなければという思いに突き動かされて書いたという。

私は、いつも笑顔ではない丹野智文や、前向きでない時の丹野智文も知っているが、それでも彼は最も真摯にこの社会に向き合っている「人間」のひとりである。
彼をそこまで駆動させているのは何か。
それはきっと、「認知症の力」というものだと、私は、そう思う。

|第171回 2021.3.24|

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