認知症EYES独自視点のニュース解説とコラム
  • くらし

「認知症とともに生きる」ノート その4 〜少子超高齢社会は、高齢者の問題なのか〜

コラム町永 俊雄

▲桜の花に見送られて、クルーズ船の出航。新たな旅立ちの向こうの私たちの未来への羅針盤はどこにあるのだろう。

宮本武蔵の言葉に、剣の奥義とは「観の目を強くし、見の目を弱くする」というのがあるそうです。剣聖、武蔵の体得した「観見二眼」の境地というもので、要するに「剣尖だけにとらわれる(見の目)のではなく、しなやかに静まった心で全体を視野に収めること(観の目)」こそが「勝つ!」ということである、とまあ、たぶん、そういうことなのでしょう。
剣豪小説などを読みますと、敵の剣尖がにわかに大きく迫り、その一点に敵剣士が隠れるようにして見えなくなる。が、そのとき、ふっと大きく構えることで、敵の心気にわずかな乱れが生じ、その刹那、自らの剣が走って脳天をしたたかに割る。「小次郎、破れたりっ」てなものでしょう(このあたり、かなりいいかげん)。

確かに、バードウォッチングの達人が「初心者は、森に入っても鳥を見つけることばかりに視線を泳がせますが、そうではなく、こずえ全体をゆったりと眺めていると、ちゃんと鳥が目に入るものです」とか、言いますが、なるほど、あい通ずるところがあるようです。

認知症を考えることも同じようで、「見の目」で、認知症だけを見つめていると、どうしてもある種の課題性であるとか問題点に自分を縛り付けていきます。が、そこに「観の目」と言いますか、この社会全体を自分なりのまなざしで眺め、そこかに浮かび上がる認知症を見るとそれまでとは違った光景が見えてきます。それが、あるいは、認知症からこの社会を見るということなのかもしれません。

では試しに「観の目」でこの社会を眺めてみましょう。
この社会の宿命的な課題は少子超高齢社会です。世界に冠たる日本の超高齢社会の切ないところは、必ず接頭語に「少子」がつくことです。少子超高齢社会。高齢者人口は膨れ上がっていき、それに反比例して生産人口と子供の人口は限りなく縮み込んでいく。
かつての私たちの明快な幸福の図柄は長寿でした。しかし、今や私たちは「長生きに怯える社会」に生きています。

だから、この少子超高齢社会は常に高齢者の問題であると捉えられています。若い世代からすれば、年金負担のことなどもあって、「高齢者が増えることはヤバイこと」と密かに思わされてしまっています。
どうすればいいんだ。誰もが少子超高齢社会の鋭い剣尖を突きつけられて脂汗を流しています。でもね、ここはちょっと広々とした視界でこの社会を見つめ直すと別の風景が浮かび上がります。それはこの超高齢社会というのが、高齢者の問題ではない、ということです。

ではこの社会の全体像を探るために少しデータを見てみましょう。私はあまりデータに依りたくない気分なのですが、しかし占いで未来予測するわけにもいかないので、お付き合いください。
国立社会保障・人口問題研究所の推計によりますと、日本の総人口のピークは2008年で、1億2808万人でした。そしてここから坂道を転げ落ちるように人口が減っていきます。2048年には1億人を割り込むとされ(出生率の取り方で変わる)、さらに減少が続きます。

さらに大きく見れば、遡って1900年頃、つまり明治時代の後半から100年間増え続けてきた我が国の人口は、私たちの時代を頂点として、今後は逆に、100年をかけて元の水準まで減っていくと見込まれるのです。明治時代の人口の国土になっていく。そのような大転換期の只中に私たちはいるのです。

▲国土交通省「国土の長期展望・人口減少・少子超高齢化」図1−1より

オレはそんな100年後まで生きていないから知らないよ、なんて人はいないと思いますが(いるような気もする)、全体性というのは都合の良い部分だけを切り取るのではなく、今、遠望できる地点まで視程をできる限り伸ばして、そこから現実との間尺を探り当てることでもあります。そうした意味では近未来の現実的な範囲を見てみましょう。

そうそう、少子超高齢社会は高齢者の課題ではないと申し上げました。それはどういうことか。
端的に言ってしまえば、この超高齢社会の課題とは、今の1億3千万人規模の国土を、やがて9千万人台で運営しなければならないというところにあります。そしてそれはさほど遠くはない未来、人口推計によれば、せいぜい30年後の未来の姿です。
これは実はとんでもないことで、今の国土の交通や都市といったインフラや企業活動や生産、制度すべてを3割減の9千万人の人々がまかなうことになります。しかも高齢者比率は高く社会保障費はグンと増え、反対に生産人口の大幅な減少で税収はグンと少なくなるであろう中で担うのです。かつて世界のどこも経験したことのないゾーンに、この国は突入するのです。

では、こうした推計が描く私たちの未来とはどういうものでしょう。ここにいつまでも超高齢社会を高齢者の課題として見るわけにはいかない現実が浮かび上がります。
この未来、それは、今働き盛りの人が高齢者年齢に達した時の未来です。さらには今の赤子がやがてこの社会の担い手になった時の未来です。つまり、少子超高齢社会というのは、長い視程の中では高齢者の課題でもなんでもなく、今この社会の中心的存在である若い世代、そしてこれからこの社会に歩み出す子供たちの課題であり、試練なのです。これこそ、逃れることができない「自分ごと」なのです。
この狭小で資源の乏しい国土を、衰退する国ではなく、豊かに成熟する社会に転換しなければなりません。決して「高齢者問題」に押し込められるような課題ではないと、私は思います。

ついでに言えば(ついでに言うことではないような気もしますが)、実は高齢者が増えていくと一口に言いますが、データはさらに厳しい側面も語ります。
 日本の人口を年齢階層別に推計しますと、2015年から2050年にかけて、高齢人口が454万人増加するのに対し、生産年齢人口は2,453万人、若年人口は518万人減少するのです。
つまり、高齢者は確かに450万人増えますが、その間、その6倍以上もの3000万の大人と子供がこの社会からごっそり消えていくのです。だから高齢化率も跳ね上がるのです。
とすれば、少子超高齢社会を、「高齢者が増えるのは問題だ」とするのはもはや的外れになりつつあります。「だれもが安心して暮らせる社会へ」という広々とした視野からしか未来は見えてきません。

じゃあ、どうすればいいのだ、ということになりますね。
実は、今言われている地域包括ケアシステムや地域共生社会が、このことを踏まえています。こうしたビジョンは、これまでの社会システムの転換、パラダイムシフトを明確に志向してます。2016年の「人口高齢化を乗り越える視点」と題した厚生労働白書を読むと、年若く優秀な厚生官僚(たぶん)が汗にじませるようにして縷々述べるようにして、「これしかないやろ」といったその切実、必死の思いは十分伝わっては来るのですが、白書という性格の限界でどうも分析にとどまっています。これで乗り越えられるか。

こうした地域包括ケアシステムや地域共生社会のビジョンが厚労省から打ち出された時、かなりの人々から批判が出ました。それは集約すれば、「これは公的責任の放棄であり、地域生活者への押し付けである」といったところでした。

うーむ、確かにそういうところがあるなあ。でもね、ここで踏ん張って考えておかなければならないことがあって、そうした批判の裏には、私たちの側のどこかに「福祉は誰かがやってくれるもの」という刷り込みがうずくまっています。これまでの経済成長路線からすれば、福祉というのは税収の再配分の恩恵でまかなわれ、そこに「誰かがやってくれる福祉観」が定着してしまったのです。
社会システムを変えるというのは、私たち社会の成員一人ひとりの意識を変えていくことです。少子超高齢社会というのは、「やってくれる誰か」がいない社会です。
この30年後、というあっという間の次の世代の未来では、無限の経済成長の幻想を振り捨て、企業のデジタル化、働き方、家族の形態、地方自治、すべてを根底から組み直す必要があります。

さて、ここまで延々と大づかみに、データがさし示すこの社会の姿を見てきました。
しかし、データと言うのはあくまでも無機の数値です。読み取り方はいく通りにも可能です。そこから物語を編み上げていくのは私たちの役割でしょう。
私は、その時、そこに「認知症」を置くことをお勧めしたいのです。大きくゆったりとした構えで社会全体を俯瞰し、そこから振り返るようにして共同体の「認知症」に視線を移す。そうすると、目先の正体の見えない不安や怯えではなく、互いの顔が見える地域社会の姿がきっと立ち上がってきます。茫漠とした未来社会の輪郭がはっきりしてきます。

そのとき、改めて「認知症とともに生きる」とか、「認知症だからこそできることがある」とか、「認知症を防ぐのではなく、老いに備える」といった認知症当事者の言葉が現実に向き合う力となり、そしてそれらは全く別の存在感を持って響いてくるはずです。
私は、それを発想を逆転するようにして、「認知症の力」といっても良いのでは、と思っています。

ではでは、to be continued.(つづく)

|第206回 2022.4.1|

この記事の認知症キーワード