認知症EYES独自視点のニュース解説とコラム
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チーム・ディメンシア

コラム町永 俊雄

私も参加している「認知症フォーラム」 全国各地で開かれるが、そのフォーラムを担うメンバーはいつも同じだ。
自転車操業のようにして、各地に飛んで取材、構成、打ち合わせを繰り返すその仲間を私たちは多少の自負と気取りをないまぜにして「チーム・ディメンシア」と呼ぶ。
メンバーはみんなまだ年若い。熱心だ。認知症を自身のライフワークとしている。だから関係者にはためらわず「認知症のナカムラです!」と胸張って自己紹介する。と、周りの人は密かに「お若いのにお気の毒に・・」と涙する、といったこともあるらしい。

確かにね、熱心さが空回りしてちょっとピントがずれてしまうこともあるからね。でもその彼らをみて感心することがある。それは認知症を知らない、ということだ。え? 知らないのはまずいだろ、と思うかもしれない。でも知らないということは武器なのだ。

認知症の人やその家族を取材する。言うまでもなく簡単なことではない。どう取材するか、どういう視点で構成していくか、常に取材者自身が問われる。しかし、それ以前にその対象となる人にとって、取材を受ける、ということはどんなことなのだろうか。有り体に言えばそのことで何ら利益を受ける訳ではない。グルメ番組でお店を紹介されるのとは決定的にそこが違う。グルメ番組なら取り上げられたとたんにそのお店が千客万来のにぎわい、ということはあるだろう。
ではなぜ取材を受けていただけるのか。それはただ一点、取材されることで当事者たちの思いを知ってもらい認知症の正しい理解につながってほしい、ということに尽きる。

そのためにはまず取材者自身が当事者、家族の信頼を得なければならない。どうすればいいのか。みんな悩んだ。しかし悩んでいる時間もないのである。仕方なく、というかトボトボという感じで現地に行き関係者にあたる。
その時「知らない」ということが武器になるのである。認知症の現実についてわからない。聞いていくしかない。そもそもの思いから丹念に聞いていく。思いを聞く。つらい思いをもう一度なぞるのは申し訳ない、そんな謙虚さも取材者には当然ある。そして介護体験を詳しく話すことで家族は自分たちの現在の状況を確認できる。取材者と介護家族の間に不思議な連帯が生まれてくる。
生半可な知識がないだけに、余分な認知症のフィルターなしにじかに人間と向き合うことが可能なのかもしれない。

認知症の人との間にはさらに劇的な関係が生まれる。認知症の人と、俗に言えば、大の仲良しになるのだ。お年寄りが取材者の訪問を心待ちにするという。
「ウーム、これはなんとしたことか。あいつ、友達少ないはずだろ?」
とこちらは奇妙に思うが、認知症の人がその取材者の「無知の誠意」を鋭く見極めたとしか思えない。認知症のお年寄りと子供たちの交流が実に自然で豊かであることと一脈通じるところがある。

彼らは認知症の人から多くを学んだ。
今では認知症のたくさんの知識を備えたが、今なお自己紹介では「認知症のナカムラです!」とさらに胸を反らしているようだ。
これが「チーム・ディメンシア」なのです。

| 第4回 2010.4.23 |

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