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イチバン、アリガトウ

コラム町永 俊雄

沖縄で認知症フォーラムを開く。
「夏のオキナワ!」「オキナワっすね」スタッフはコソコソと言い交わす。
「リゾートがオレを呼ぶ」「チャポッくらいは海、入れますかね」「海水パンツ持ってこ」
降り立った那覇空港は、「ザマミロ」といった感じの土砂降りだった。スコールなのである。オキナワはアジアだ。

オジイ、オバアがいつものびのび、元気な島。沖縄は百歳の人口比は常に全国トップだ。が、長寿の島のイメージが強いからこそ、沖縄の人は切実な危機感を抱く。この島にしっかりと根付いていた「イチャリバチョーデ(一度会ったら皆兄弟)」「ユイマール(相互扶助)」という言葉が急速に失われつつあると、島の人は嘆く。

フォーラムで紹介したのは、そんな沖縄のある地域の取り組みだ。
沖縄市久保田地区。
この地区の自治会長、新城さんは地区の変化に心を痛めていた。一人暮らしのお年寄りが増えた。日中、どんな暮らしをしているのだろうか。新城さんにとってはこの地区の人々は、イチャリバチョーデ、みんな兄弟どころかみんな家族なのである。居ても立っても居られない。まずは出来ることから、と新城さんは動いた。地区を毎日見回っては声をかけたのである。鮮やかなTシャツに、キャップをかぶって新城さんは軽やかに歩く。
「コンニチハ、元気ィ?」「独りだと、サビシーね。ダイジョブ?」
ウチナーグチの呼びかけはそれだけで、お年寄りの安心と笑顔を呼ぶ。
でも、一軒、いつ前を通っても閉め切ったままの家がある。戦後間もなく台湾から移り住んで来た中国人の任紹孟(にんしょうもう)さんだ。
いっときは腕の立つテーラーとして働いていた。しかし、共に激動の戦後を過ごして来た妻が亡くなり、自分も脳梗塞で倒れてから認知症の症状が現れ、以前のように外に出ることはめっきり減った。
認知症の任さんをどう支援したらいいか、新城さんの呼びかけで、話し合いがもたれた。地域包括支援センター、民生委員、地域の人、介護職、日本語が不自由な任さんのために通訳も呼んだ。どうしたらいいんだろう、みんな考え込んだ。
「そうだ!」新城さんが思いついた。以前、任さんは腰が痛いとマッサージに通っていたのを思い出したのである。「連れて行くから、また行くかい?」「行きたい」即座に任さんが答えて、支援の一歩は決まった。
その一歩は、実は地域を大きく変える一歩だった。そこでは顔なじみのマッサージ師と任さんは楽しい時間を持った。店の人も任さんの見守りを喜んで約束。
ならば、と今度は集会所で中国語教室を開くことにした。任さんとの会話のためだ。
思わぬ波紋はここでも広がった。講師の通訳は、日本人と結婚した中国女性。「これまで地域の中になかなか入り込めなかったのに、こうして役に立ててとても嬉しい」
あとは、次々にたぐり寄せるようにして、新たな動きがこの地区に広がっていったのだ。
そして、任さんの誕生パーティまで開くことになった。地区のたくさんの人が集まった。フラダンスの同好グループがフラを披露。そこにはあの通訳さんも民生委員さんも混じっている。これをきっかけに仲間入りしたのだ。たくさんの笑顔の中、ひときわ嬉しそうな新城自治会長が任さんに挨拶を御願いした。通訳さんとみんなの拍手に促されて、任さんはマイクを握った。
「ワタシ、アタマ、スコシダメ」さざ波のようにあたたかな笑いが広がる。そして任さん、こう言った。
「イチバン、アリガトウ」

青年団のエーサーが始まった。いつも地域をひとつにつなげるエーサーの太鼓が響き、手拍子がおこり、みんな任さんに握手し、認知症の人もそうでない人も、沖縄の人も中国の人もみんながひとつに太鼓の音の中にいた。
認知症の任さんの支援から始まった地域の活動はいつの間にか、任さんを中心にして、再びしっかりとこの地域にイチャリバチョーデ、ユイマールを根付かせることになったのだ。
エーサーの太鼓は、今度は任さんに向かって「イチバン、アリガトウ」の気持ちを込めて、地域の人々が鳴り響かせているようだった

| 第11回 2012.6.20 |

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