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一億総活躍社会と認知症

コラム町永 俊雄

一億総活躍社会なのだそうだ。この「一億」には、当然ながら私もあなたも勘定に入っているはずなのに、なぜこうも他人事なのだろうか。
「一億総懺悔」「一億総玉砕」を連想させる、といささかステレオタイプの批判も目立った。どうもその違和感の根底には「名目GDP600兆円」という景気の良すぎる目標まで掲げられたこともあって、要するに私もあなたも「もっと頑張れ!」ということなのね、といったアベノミクスならではの経済性と生産性に絡み取られるような、ヤレヤレ感がある。しかしこの論調もあちこちで形を変えて出ているから、いまさらこのコラムで屋上屋を重ねても仕方がない。

では、この一億総活躍社会を全く角度を変えてひとつの視点から見てみるとしよう。そこには「認知症の人」はどう位置づけられるのだろうか。

39歳で若年認知症と診断され、現在は日本認知症当事者ワーキンググループメンバーとして積極的に講演などで発信している丹野智文氏とフォーラムを開いた。フォーラムの最後に彼はこう語った。
「来年の講演では私の認知症も進行して、辻褄の合わない話をするかもしれない。しかしそんな私も見てほしい」
会場は一瞬水を打ったようになった。聴衆の誰もが強い感銘をうけた。
「認知症でも大丈夫」「認知症でも安心の社会」というややもすれば上滑りしがちなキャッチに、彼はズシリと現実のくさびを打ち込んだ。認知症は残念ながら進行する。そのことも踏まえ、だからこその「認知症でも安心する社会」への構築を呼びかけたのだ。いつもハツラツと笑顔を見せながら話をする丹野氏が自身の進行する重い現実の中から「認知症でも安心の社会」へ共に進む覚悟と連携を呼びかけた。絶望に希望を灯すような言葉だった。

実はこれまでも認知症の本人の発信は相次いでいた。例えば長崎の太田正博氏、大分の足立昭一氏などはそれぞれ10年以上前から認知症の本人として、いち早く認知症でも出来ることはあると講演などを通して活動してきた。
10数年経って、現在太田さんも足立さんもすでに活動はできない。一日の大半は妻に支えられ、発する言葉は殆ど無くなった。しかしくらしの中でかつての思いが蘇り笑顔になる一瞬がある。そこに私たちが見るのは「認知症を生き抜く」姿であり力だ。

「一億総活躍社会」とは、ただ生産性をあげるよう頑張れとけしかける社会ではない。老若男女、障害や難病を抱える人誰をも包み込むインクルーシブな社会であるはずだ。
どんなに進行しても認知症の人は「認知症を生き抜き」、存在するだけで、この社会に大きな役割を果たしている。そのことを目指すことこそ、いちばん確かな「一億総活躍社会」である。私はそう思う。

|第28回 2016.5.19|

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