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お福の会宣言

コラム町永 俊雄

▲ 1月31日の皆既月食。認知症になっても自分に変わりはない。それをお福の会宣言ではこう記した。「月が欠けているように見えても月が丸いことに変わりはない」と。認知症に向き合う人々は、今、認知症の人たちとともに新たな「月」の姿を仰ぎ見ているはずだ。

新宿の一角に「お福」という典型的な居酒屋があって、普段はだいたいサラリーマンがネクタイを鉢巻にして、「課長のバーロー、てやんでぃ、ウィッ」といった雰囲気なのだが(多分)、二ヶ月に一度ガラリと変わった人種たちでごった返す。座敷に人がひしめき、入りきれない人は店外にまであふれた。10年前の認知症の異業種勉強会「お福の会」である。
介護専門職、医療者、家族、ジャーナリスト、老若男女のそのほかの人々が全国から参集した。元々は、その時のNHKスペシャルで認知症テーマの放送をした時の参加者たちが、「これではあかん、医療者と介護者、家族がもっと横断的に話し合わなければ」という危機意識だった。
そこからスタートした「お福の会」はそれぞれのメンバーの熱量だけで突っ走った。湯気が立ち昇るような熱気の中で毎回議論した。確かにあの当時は今からすれば、医療者と介護者、家族それぞれの位置は遠く隔たっていた。違う言語で認知症を語っていたようなものだった。そのうちに「これではあかん、それぞれが拠り所となる理念が必要だ」という危機意識が生まれた。切羽詰まったような危機意識ばかりだったのだ。
そこで生まれたのが「お福の会宣言」である。この草稿をめぐっても議論は沸騰した。一語一語をめぐってその度に大議論となった。一旦は、この誕生間もない「お福の会」もこれまでか、という事態にもなったが、ギリギリのところで、この場を潰していいのかという危機意識が、対立を乗り越え、かくして「お福の会宣言」が生まれた。(コラム下欄参照)

この「お福の会宣言」に久しぶりに出会った。2月3日に私と川村ディレクターと木之下徹医師が仙台に集まり、三人の連続講演があった。その時、川村、木之下両氏が奇しくも共にこの「お福の会宣言」を紹介したのである。
その時、改めて気づいた。なんだ、ここに全てがあった、と。私が仙台で語った「認知症の人の権利」も生活の主体者であることも盛り込まれているし、進行した認知症の人の尊厳についても「月はかけても、そこに丸い月があることに変わりはない」と明記し、それぞれの立場を超えて「市民」として向きあうことも宣言しているのだ。
自身も関わったのでおこがましいのだが、ここには、この数年後に提示される厚労省の「今後の認知症施策の方向性について」や「新オレンジプラン」の先取りもあるし、地域包括ケアや地域共生社会の姿も既にここに語られている。何より認知症の人を主体者とし、自分の事とする当事者性や権利もここに位置づけている。今の意識から見ても清新な思いに満ちていた。あれこれとたくさんのことを押し込んだところもあるが、逆に凝縮した理念の結晶だとも自賛してしまおう。
原点だった。水平社宣言や青鞜社宣言もどこかで意識し影響されながら、あの宣言は、私たちの「五日市憲法」だったのだ。思いがより合わさった熱は、何かの予見的力を生んだとしか思えない。この時すでに「本人」の記述があるが、認知症の当時者はまだメンバーにはいなかった。当事者が「お福の会」に参加するようになったのはそのあとの事だ。そして、ここから認知症の当事者活動が生まれ、地域活動へと広がっていき、現在の認知症状況につながっていったとも言えないか。
しかし、自賛したり懐かしがっている場合ではない。この宣言から何が生まれたのか、何が実現したのか、宣言を発した責務として取り組むべきこと、考えることは今なおあまりに多い。宣言は、それぞれの立場を超えた「市民」に呼びかけている。宣言はあくまでもスタートなのだ。そして今こそ必要なのだ。持続する想いと熱を、改めて発信し、認知症の人と共に生きる社会への新たな覚悟と決意を、この社会の「市民」と共有したい。

「お福の会」は、今も場所を変えて不定期に開かれている。

▲ お福の会宣言。今もこの宣言文を読み上げてから「お福の会」を始めている。この文をまとめ上げたプロセスこそが、紛れもなく社会変革への発信につながった。確か、まとめ上げたのがNHKの川村ディレクターだったと記憶する。みんな濃かった。

 

|第63回 2018.2.9|