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早川一光 認知症へのまなざし

コラム町永 俊雄

▲「早川一光を語る会」の登壇者たち。中央に夫人の早川幸恵さん。スクリーンの早川一光医師のまなざしの元に参集した人々。認知症の人と家族の会の主要メンバー、各地の地域医療のリーダーたち、西陣の町の人々、医療者、メディア、それぞれが思いを語った。その思いの総体が、引き継いでいく力となるはずだ。(撮影 福崎千鶴)

12月15日、京都の立命館大学朱雀キャンパスで、全国から続々と人が集まって、ただひとりの医療者について、朝10時から夕刻5時まで語り継いだ。
高名な医療者が語り、名もない街の人が語り、会場は笑いにはじけ、深くうなずき、静かに涙した。

「早川一光を語る会」である。
そのチラシには、早川一光とは何者か、という語もある。何者か。
チラシにはこう記されている。
「2018年6月2日、早川一光医師が亡くなりました。94歳。
1950年に京都西陣の住民が出資して創設した診療所に呼ばれ、26歳で所長、それ以降、亡くなる瞬間まで「医師」として生き続けました。「地域医療・在宅医療のパイオニア」と称される戦後日本を代表する医療者であり、認知症をいちはやく社会問題として取り上げ、1980年「呆け老人をかかえる家族の会」創設に関わりました(後略)」
当然、この記述に収まらない実績と、何より溢れ出る「人間」の巨大があるわけだが、ここではコラムの性格に即して、認知症との関わりに焦点をあてることにしよう。

「医療ではもうどうにもならん。あとは自分たちでやれ」
それが医師早川一光さんとの出会いだったと、登壇した認知症の人と家族の会の前代表の高見国生さんは語った。あの人は医療の限界を知っていた。だから、家族の会の必要性を誰よりも早く深く分かっていた、と。
かくして、38年前の1980年1月20日、しんしんと雪降る京都で「呆け老人をかかえる家族の会」が生まれた。

それに先立つ認知症との関わりについては、早川一光医師はあるインタビューでこう語っている。
西陣の路地を往診で行き来していて、三ヶ所も鍵のかかった家をそこのお嫁さんに開けてもらうと、そこに垂れ流しのおばあさんがひっそりと座っていた。認知症の人である。その時、早川医師は「風」を感じたと言う。それは大地震が起きて、そのあと津波が襲ってくることに土地の古老が「津波が来るぞー」と叫ぶような「風」を感じたと早川さんは語っている。

住民の暮らしが主体であると西陣の路地から路地へと往診し、「わらじ医者」と呼ばれていた早川医師の直感が、津波のような認知症の到来を、いちはやく時代の「風圧」として捉えた。
認知症のおばあさんを隠して隠して隠し通してきた家族と本人の苦しみに、早川さんは、なんとか隠さんでもいいようにしよう。そのためには、一緒に苦しみ一緒に悲しむ組織、家族の会が必要だと思ったとも語っている。
「医療ではもうどうにもならん。あとは自分たちでやれ」と高見さんに言ったのは、こうした早川さんの思いがあったはずである。

医療の傲慢を抑制し、医学が病を治すわけではない。人間が病を治すのであって、医療はそのお手伝いをするだけというのを口癖にしていた早川医師と家族の会の出会いは、「認知症」にとってはとてつもない僥倖だったと言えるし、その後の「認知症の人と家族の会」、認知症とこの社会の方向を、そのとき規定したとも言える。
「あとは自分たちでやれ」という早川医師の叱咤と励ましに、家族の会はその後、全国組織となり、「つどい」を開き、その後の調査研究や電話相談事業など、まさに自分たちが繋がり広がり、鍵がかけられ隠されていた「認知症」を世に押し出したのである。

これが、医療の限界をぼかしながらの医療パターナリズムとの出会いであったら、ある意味やさしげな対応の中に、認知症は暮らしの場から切り離され、困難な病として医学に囲い込まれてしまったかもしれない。
それは家族が鍵をかけざる得なかった現実に、今度は社会が、認知症の人の人生に鍵をかけてしまったかもしれないのである。
よくぞ、早川医師がその時代に居合わせてくれた。そのことを思うと、どこか胸をなでおろすような思いさえする。

「偲ぶ会」にはしない。あくまでも「早川一光を語る会」である、としたのは、この会を呼びかけた全国の「早川山脈」に連なる医療者、関係者の思いである。「偲ぶ会」では、故人の偉業を回顧して過去のアルバムに閉じるようなものだ。亡くなる寸前まで人間と地域と医療に関わってきたその遺志を語り引き継ぐために、この会はあった。

「早川一光の何をどう引き継ぐのか」というテーマでのパネルディスカッションの時、お願いして、早川一光医師のポートレイト写真を舞台スクリーンに映し出してもらった。
まっすぐにレンズを見据えた早川医師のそのまなざしは、向き合うものの心情で違う。射すくめられるようでもあり、見守るようでもあり、そして問いかけられているかのようだ。

引き継ぐものは何か、それは問いかけだ。早川医師のまなざしに向き合う自分への問いかけだ。
早川医師のまなざしに「認知症」はどう映っていたのだろう。
かつては「認知症」は、医療やケアによって語られるばかりだった。
しかし、「医学が病気を治すのではない。人間が病を治す」という早川医師の言葉によれば、まさに認知症は医学ではなく、人間が治すものだった。では、ここでの「治す」ことは、どういうことか。
「人間が病を治す」、それは疾患としての認知症ではなく、社会的要因へ向けられた問いかけだった。それが、西陣の路地に暮らす住民の貧困や衛生、労働、そして孤立を「治す」ことに生涯をかけた早川一光医師の地域医療だった。

そのまなざしを認知症は引き継いだ。認知症という疾患を宿命的な災厄としてみるのではなく、そこから、偏見や差別を「治す」ことに目を向け、そのまなざしはそのまま自分へ振り向けられて、自身の不安や怯えを自分で「治す」ようにして、世間に「できること」「やりたいこと」を発信していった。
その過程こそが、人間が認知症を、社会の中で「治す」取り組みにつながったのだ。

そして、路地から路地へと往診する早川医師の取り組みは、際限ない住民との対話だった。
高齢者を見かければ、立ち止まり声をかけ、幼子を覗き込んでは周囲に笑顔のさざ波を生み、そして自身の医療のあり方は住民と膝付き合わせて集会を重ねた。
「語る」「語り合う」ことは、早川医師の基本的な医療行為であったろう。

語り、語り合うことは、「認知症」にとってはかけがえのない力だ。
「認知症」は、語り合うことでしか、這い進むことができないという経験知の集積なのだ。状況を創り、進ませるためには「医療」のような堅固なシステムのなにものも持たず、ただ、ひ弱な生活者のつながりの中で、涙し、汗をかき、そして語り合うことが、認知症の状況を変え創ることを誰もが学び、実践した。
思えば、どれだけの語る場を持ったことだろう。家族の会の「つどい」がそうだった。認知症の当事者活動から、何人もの本人がカムアウトし活動の推進力となった。海の向こうの当事者たち、クリスティーンやジェームズと語り、ケイト・スワッファーと出会い語り合った。
その意味では、認知症は、遥かに医療の先をいく地点を確保してきたのだ。全国の認知症の人々の不安と悩みに満ちた暮らしの「路地」の隅々をめぐるようにして、語り合いのつながりができた。
語ることは繋がることであり、そして思いを引き継ぐことだ。
「認知症」が一番確かに早川一光の「医療」と、そのまなざしを引き継いでいる。

「早川一光を語る会」、会場を後にするとき、振り返れば、あの早川一光先生のまなざしは、どこか柔らかく微笑んでいたように見えた。

▲ひとりの人間の成し遂げる事の大きさは、その人生の振幅の大きさである。早川一光医師は常に「これでいいのか」と自身に問い、世間に問うた。下段は「早川一光の何をどう引き継ぐのか」のパネルディスカッション。早川一光の問いかけに応えることができたのだろうか。

|第89回 2018.12.20|

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