認知症EYES独自視点のニュース解説とコラム
  • 介護

前田隆行 認知症の人とともに「素になれる」あたりまえの社会へ

コラム町永 俊雄

▲前田隆行さんが町田で取り組んでいるデイサービス「DAYS BLG!」
この活動を、チャレンジだという人が多い。その通りだ。しかし同時にそれはこの社会の壁へのチャレンジであり、むしろ問いかけだ。この社会は、誰もが「素になれる」ところになっているのか、と。

町田のDAYS BLG! の朝は賑やかだ。
迎えの車から続々とBLGのメンバーが集まってくる。(前田さんは認知症の人ではなく、仲間としてメンバーと呼ぶ)
ここからここでの1日が始まるのだが、そうそうことは簡単には進まない。あちこちで雑談が始まり、こちらでは早くも昼の弁当についてスタッフと相談が始まる。
その真ん中に前田隆行さんがいて、でも別にみんなを急かすわけでもなく、前田さん自身もなんとなくウロウロとみんなが一段落する頃合いを図っている。
毎回、朝のこの時間が大切なのだと前田さんは言う。この時間があることで誰もが生き生きと一気に活性化していく。仲間の力だという。そしてこの時間はまた前田さんにとっても、素早くメンバーそれぞれの体調や気分を見てとっていく重要な情報収集の時でもある。

「さて、」ようやくみんながいつもの自分の席に着いた頃に、前田さんはミニ白板を手にして今日のBLGが始まる。
「やりたいこと」、まず白板に書く。ここではみんながそれぞれのやりたいことを自分で決めていく。ところがこれがまた時間がかかる。
「洗車」、よく知られているように、このBLGの活動の柱、地域社会での役割を持つために近所のカーディラーの展示車両を洗う取り組みである。報酬も出る。
「洗車をしたい人」、ここからワイワイと話がはずむ。「寒いな」「お湯が出るかな」「風が冷たいな」「マフラー持ってきた?」「作業の邪魔だよ」「雪が降るかな」「クリスマスじゃないし」
次々に合いの手が入り、混ぜっ返すような冗談が飛び出し、横道にどんどんそれて笑い声が絶えない。前田さんは白板に何も書かないまま、ただニコニコして聞いている。

「あたし、それやってみたい!」
突然、80半ばの白髪のご婦人が手を挙げて発言した。「洗車をしてみたい。一度やってみたいとずっと思っていたの」
おやおや、それはどうかな。この冷え込みだし、ご婦人にはなかなかの労働だ。
「やってみますか」 前田さんは特に動じる風もなく、「それではお願いしましょう」

この日はその他の、近所へのフリーペーパーのポスティング作業、カラオケに行く組、どこにもいかないのんびり組と、メンバーそれぞれの「やりたいこと」が決まるまで一時間はかかった。

前田隆行さんは言う。
これは例えば15分でもできるかもしれない。でもそれじゃダメ。時間をかけると言うのは、メンバーそれぞれが、自分のやりたいことを決めるために必要な時間だ。その中で他の人の考えに接したり、自分の思いを確認したり修正したりしている。だからあんなに活発に話し合っている。考えて聞いて話して、そうして自分のやりたいことを決める。そのプロセスも含めて決めた「やりたいこと」というのは「その人のもの」だ。
私たちはすぐに「やりたいこと」の「答え」を一直線に求める。でもそうして出た「やりたいこと」は、こちらの勝手な思い込みや期待に従ったに過ぎず、むしろ「やりたいこと」を奪っていることにもなりかねない。
だから、一人のご婦人が「洗車を是非ともやってみたい」と言った時にはこの取り組みがメンバーに支持されていると、前田さんは嬉しかったという。

去年の暮れに「認知症にやさしいまち大賞」の表彰式があった。
その時、選考委員の丹野智文さんは講評で「認知症の人のやりたいことというが、果たして地域は、その「やりたいこと」を言える環境になっているのか。認知症の人にやりたいことがないのではなく、言わせていないだけなのではないのか」と言った。
BLGの前田さんの取り組みと、どこか符合するところがある。

その前田さんは、ただニコニコしてみんなの話を聞いているだけのように見えても、実は頭の中はフル回転である。誰がどう話し、それに対するメンバーの反応、関心を示さないメンバーにどう働きかけようか、もう少しみんなの話し合いを続けてもらうか、介入度を極限にまで低くするということは、代わりにありとあらゆる情報処理を瞬時にしなければならない。
一緒に笑い、「ふーん」とうなずき、時には「どう?」と顔をのぞきこみ、その頭脳労働の過熱に毎回終わるとぐったりする。夏などは座ったままなのに、シャツが汗びっしょりになるという。
「でもね、誰もが自分の素のままだし、私も素の自分で接すればいいのだから、変なストレスは全くない。私の活力であり、喜びだな」

「素のままで」というのは、前田隆行さんにとって重要なキーワードだ。
かつて、前田さんは自分の思うような「介護」の実践を目指して挫折もあったという。その時、自分の中のどこかに「介護はこうあるべきだ」という思い込みがあったのではないか。その後、認知症当事者の人々と接する中で「認知症の人」「介護」という視線ではなく、「素」の自分であろうとしたら、すっと楽になった。

「素のままでいよう」、これはその後の前田さんの行動原理になった。
多分、簡明な解釈で言えば「ありのままの自分」ということになるだろう。
しかし同時に「ありのままの自分」というのは、実はかなり厳しい自己規定である。それは常に自分自身を「これでいいのか」と検証し続ける動態だ。前田さんの「素のままで」というのは、自身に白刃を向けるような鋭さの言葉である。

この「素のままで」は、そのまま認知症のメンバーにも向けられる。それは「素になれる」場所を作ろうという次世代型デイサービスのDAYS BLG! の現在につながる。
だから、前田さんのBLGでは、認知症の「介護」とか「ケア」という概念は一切前景化しない。私が訪ねたこの日も、スタッフやメンバーから「認知症」という言葉はついぞ出ることはなかった。

前田さんの取り組みは高い評価を受け注目されている。しかし、前田隆行の活動をどう受け止めればいいのだろうか。そのことを考えてみなくては、この活動の本当の意味合い、目指すところは見えてこないのではないか。

前田さんの、まさに「次世代」の取り組みの意義と役割は注目されてしかるべきだ。
ただ、その活動をただ単に「もちあげる」だけで終わるとしたら、それは多分、前田さんの本意ではないだろう。
「素晴らしい取り組み」とすることは、その時点で日常から切り離された「特別」なものに転化させ、独自性の強調は、あたりまえという大切な普遍性の否定にもなりかねない。
少し意地悪く思うのだが、「素晴らしい活動」が賞賛で終わるとしたら、どこかで自分の怠慢から目をそらしているだけではないのか。

前田さんの取り組みは、ある意味で難しいことではない。
認知症の人のやりたいことの選択を保証し、やりたくないことを受け入れ、「素になれる」仲間がいて話し合う場所があり、そこにかけがえのないあたりまえの日常があること。

その認知症の人のあたりまえを、とてつもなく難しくしているのは誰か。
認知症の人から、「素になれる」あたりまえの日常を奪っているのは誰か。

前田隆行さんはよく言うのだが、ここBLGに来ることが目的であってはならない。ここを起点にして、認知症の人それぞれが「素のままで」広く地域社会に出ていけるようにならなくてはならない、と。

胸に手を置いて顧みれば、この社会は、あたりまえがあたりまえに存在せず、「素」の自分の居場所なく不条理なつらさに満ちている。それを放置して、私たちは「素晴らしい取り組み」に逃げ込み、何を勝手に期待しているのか。

町田の閑静な住宅街の一画から、前田隆行は、認知症のメンバーとともに、この社会の成員すべてに穏やかなまなざしで、そのことを絶えず問いかけている。

|第91回 2019.1.17|

この記事の認知症キーワード