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「認知症大綱」 予防と共生の車の両輪は成り立つか

コラム町永 俊雄

▲ 上段、認知症の当事者勉強会の参加者たち。認知症当事者、医療者、専門職、官僚、記者、研究者、そうそうたる顔ぶれである。下段は語り合いの様子。ここからどうなるのか、認知症社会の転機か、危機か、展望か、それぞれが語り合う。中央が、18日の関係閣僚会議で決定した大綱。共生と予防が車の両輪としている。

6月18日に認知症の大綱が決まった。
大綱案では、予防の数値目標に対する反発などから修正を余儀なくされたのはご存知の通りだ。
決定した大綱では、それもあって、「予防と共生」の順番を入れ替えて、「共生と予防」とした。そういう問題なのかという気がする。
その予防も、認知症にならないという「発症予防」ではなく、「認知症になるのを遅らせる、進行を緩やかにするという意味」と定義した。
ここがひとつのポイントだろう。というのも私の周囲でかなり認知症についての活動にも関わり、それなりの見識を持っている人たちも、「進行を遅らせる予防ならいいのではないか」と反応する。確かにこれなら、すでに認知症になった人にとっても受け入れられるし、希望にもつながるのだろう。

先日、私たちが定期的に開く認知症当事者勉強会で、「認知症医療」をテーマに語り合ったのだが、ここでも医療者から「認知症予防」が語られた。
コトの本質は、「認知症予防」の枠内にあるのではなく、「認知症予防が語られ(続け)る社会」の側にある。この大綱でも「発症予防」が偏見を助長するという反発を受けたので、それならと、進行を緩やかにする「進行予防」に置き換えたが、表現は変わっても、そこを貫くのは、認知症を「なってはならない病」とする疾病観である。

「認知症予防」を言う時の、その違和感は実は常に認知症を「なってはならない病」とする疾病観が前提化するからだ。それは「進行を緩やかにする予防」であれ、かえってマイルドな受け入れやすさをまとうだけにそのスティグマは、誰もの心深く、見えない地点に浸潤する。
どの自治体も、「認知症予防教室」と銘打って、フィットネス自転車と体操をし、計算や漢字のドリルをする。地域の高齢者がこぞって、嬉々として集まってくる様はなごやかな日常の風景としか見えない。
そうした風景をずっと引いたドローンの俯瞰アングルで見れば、全国各地の至る所に「認知症予防」が刻印されていくこの社会とは、例えば、若い世代、子どもたちにどのようなサインを送っているのだろう。

医学の用語では、認知症の発症予防を第一次予防、認知症の早期発見・早期治療を第二次予防、認知症の病気の進行防止を第三次予防とする。ただ、認知症医療者たちは、このどれにも確たるエビデンスはないとする。
サイエンスとしての医学は、発症予防をダメな予防で、進行予防ならいい予防と言うこともできない。

仙台のいずみの杜診療所の山崎英樹医師は、世の「認知症予防」についてはこう明晰に語る。
「認知症予防に関する多くの論文で不思議なことは、認知症があってもなくても通用するであろう健康増進策を、認知症だけを対象として、行うか行わないかで比較し、行う方が良い、という結果がでれば、これを認知症予防と結論することです」

これほど的確に、認知症予防にエビデンスがないことを誰にもわかりやすく語る言葉はない。医療者はこういう語り口を持つべきであろう。
「健康増進策」とすればいいのを、なぜ「認知症予防」として結論づけるのか。そこには、あくまでも「認知症」を標的にしようとする執拗な意志が感じられる。

なぜ、認知症の大綱も、これから成立するとされる認知症の基本法も、「予防」をこれほどに重視するのか。それは、この社会の「認知症にはなりたくない」とする圧倒的多数の「願望」に応えることこそを、政策の建前、大義名分としているからである。

皆様の声にこたえます、というポーズの下には、実はネガティブな疾病観がうずくまり、予防を言いつのることで、さらに次々と「認知症にはなりたくない人」を生み出していく。
意地悪く勘ぐれば、この大綱の予防重視の政策は、認知症予防ビジネスにとっては、無限のマーケットの確保につながる。いわゆる認知症予防ビジネスが「ブルーオーシャン・ビジネス(行くところ敵なし商売)」と言われる所以である。

別の視点から、大綱の予防と共生を見てみたい。
「認知症」は、施策者、医療者の側だけではなく、社会福祉的というか、ソーシャルアクションにつなげるためには私は、いつも人々の側から考える。迷い誤る側からの、揺れ動く考察といってもいい。

大綱の「予防」というのは匿名の用語だが、しかし、その言葉の内部には懸命に暮らしを営む顔も名前もある人々の思いがぎっしりと詰まっている。そこには「認知症にならない」ための情報だけで、それ以外の、認知症になった自分の暮らしの想像力は誰からも与えてもらっていない人々である。
そして、「共生」もまた、抽象の用語からビクとも動かず、「予防」からはるか離れたところでこの人々を冷ややかに傍観しているに過ぎない。
ここには、この社会の大きな塊である「認知症にはなりたくない」という思いに、右往左往している人たちがごっそりと抜け落ちている。共生社会のメンバーにカウントされていない。
そもそも「認知症とともに生きる社会」とはどんな社会なのだろう。
それは、認知症の人と、その人たちとの共生を意識化している「良き市民」だけとの盟約なのだろうか。そのとき、「認知症になりたくない」とする人々はどこに位置付けられるのだろうか。予防に押し付けられているだけではないのか。

「認知症とともに生きる社会」は、実はこの「認知症にはなりたくない」とする人々がどう動くかにかかっている。この人々をエビデンスなき予防に狂騒する人とするのか、社会資源の空白、共生の不在の中におちこみ、「予防」に向かわざるを得ない人々と見るのか。

あたりまえのことながら、この社会は「認知症の人」と「まだ認知症になっていない人」の共存であり、そのまだ認知症になっていない人たちのかなりの割合が、「認知症にはなりたくない」と思う人々である。この人々に向かって、「認知症とともに生きる社会」にとって話がややこしくなるので、あんたたちは外に出ていてくれ、というわけにはいかないのである。

こうした人々こそ、本当の共生への推進、実現によって、それぞれ個人の予防へのモチベーション、そこにある疾病観「認知症になってはならない」に縛られている自分を、ありのままの自分でいいとする共生の地域への選択的転換をしてもらうしかない。
予防を全ていきなり消し去ることではなく、予防から徐々にそれぞれの個人の意識を、選択としての共生する地域社会を創り上げる覚悟と決意の方に向けさせることができるか、だ。

ストラテジーとしては、車の両輪であるより、予防から共生への人々の意識の移行、ということになるのだろうが、大綱にはそうした発想はない。
一方で共生モデルである「認知症とともに生きる」ことにも重心がなく、ネガティブな認知症の疾病観を凌駕する社会総体の合意が希薄だ。

当事者勉強会で報告者だった三鷹ののぞみメモリークリニックの木之下徹医師は、「認知症医療は予防も治療も維持もダメ、医療は敗北したのか」と率直に語る人だが、「では、認知症医療は何を目指すのか」と会場から問われると、うーん、わからないなあとしつつ、一枚のスライドを示した。「生命の哲学」を提唱した哲学者、森岡正博氏の言葉である。

「誕生肯定とは、これまで生きてきた人生を丸ごと肯定することを通して、私が生まれてきたことを肯定することである」

|第107回 2019.6.21|

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