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緊急事態の延長と「今、私たちができること」

コラム町永 俊雄

▲誰もいない公園。あたりまえの日常が変わってしまった。しかし、その日常とは何だろう。実は日常はあたりまえの所与のものとして存在するのではない。それは人々の営みの中で築き上げてきたかけがえのない想いや涙やつながりの集積なのだ。そのことに気づくこともまた「今、私たちにできること」

緊急事態が延長されることになった。
これで閉じこもるようなステイホームがさらに続くことになる。これまで人との接触を避け、不要不急の外出を控えることで、なんとかこの事態の収束につながるようにとがんばってきた人々の中にも、糸が切れるように自粛疲れが出始めたのだろうか。

マスクをしていないとか自粛してないじゃないかと、ただ他人の振る舞いばかりが気になって誰もの心と心がギシギシときしみ始めたような気がする。
自分はこんなに我慢しているのに、あの人は自分ほどに我慢していない。それが許せないと、互いにさらにネガティブな方向に引きずり込まないと気が済まない。

本来は、離れていてもきっとつながっているとする確信が誰もの力となってきたはずなのに、それが崩れてきているのだろうか。疲れてしまったのだろうか。
私たちの弱さをウィルスは見逃さない。

「距離をとりましょう」と言われているが、心の距離も健康にひろびろとさせておかないと、互いの心にもウィルスが感染しそうだ。

そんな中で、メディアのスポットなどでも「今、私たちにできること」というメッセージが流されている。タレントや著名人などがにこやかに、希望の苗をひとつひとつ植え付けるように「今、できること」を呼びかける。

「今、私たちにできること」というのは、実はこの事態の中でかなりの質量を持ったメッセージではないかと、私は思っている。
そのかろやかなフレーズについそのまま聞き流してしまいがちだが、通り過ぎる街角でふと振り返ってしまうような、そんな懐かしく、そして実は力強いメッセージだ。

「自分にできること」、これは「問い」なのだ。自分で自分自身に問いかけている。
それはこの事態に従属するのではなく、この事態を自分が主体的に引き受けようとする行動の始まりだ。
今、自分にできることは何か、そのような問いを立てるとき、現在のメディアやネット上の論争や非難や風評はすっと背景に遠のき、それぞれが改めてこの事態を自分の暮らしや価値観に引きつけて考えることに踏み出すことになる。

この新型コロナウィルスの事態は否応なく、すべての人に関わることである。それはそのまま誰にとってもの「自分ごと」なのである。
この国の少子超高齢社会にどう向き合うのか、そこで打ち出された地域包括ケアも地域共生社会も、キーワードは「自分ごと」である。

少子超高齢社会の現実の重さは、施策だけで担うには限界があり、社会の成員すべての協働が必要だというわけだ。だがこのことが政策として地域福祉の現場に降りてきた時、施策の中の「自分ごと」の標語を、誰も自分のことだと発想できなかったのは無理はない。

しかし、今回の事態はまさに否応なく「自分ごと」として誰もが接するしかなかった。標語ではなく、現実の「自分ごと」として。
この国の誰もが同じ運命の中に投げ込まれ、国も自分も無力であるとしたら何ができようか。
この事態を改めて「自分ごと」とし、それがそのまま「今、自分にできること」という「問い」を立てることになったのである。

そうは言っても、この事態で実際に「今、自分にできること」を考えることは結構難しい。
私たちはこれまで自分で「問い」を立て、そこから自分自身の考えを探り当てることのような、「厄介で面倒なこと」をせずに済ませることができた。いつも誰かの言説を拝借して、その周辺でああでもないこうでもないを繰り返せばよかった。

しかし今回は、自分の「問い」である以上、すぐに思いつかないからと言って誰かの既成の「正解」に飛びつくわけにはいかない。
どんなに頼りないことのように思えても、それがあなたのオリジナルであるのなら、それはこの事態を動かす一歩であるに違いない。この大きな事態に、一番まずいのは沈黙し、流されてしまうことだ。

自分にできること。最初に思い浮かぶのは「ステイホーム」だろう。
このステイホームだって、自分が感染しないためだけではない。そのことが、他者の感染リスクを減らし、ひいては医療現場の崩壊リスクを支えることになる。

誰かに言われてのステイホームは「我慢を強いられている」という感覚がつきまとうが、「今、自分にできること」として主体的に引き受けるなら、それは家にいても全く違った風景を招き寄せるだろう。
閉じこもるしかない自分のステイホームの静的行動が、実は社会との連携を生んでいく。無力だと思い込んでいた自分が社会の中でどのような存在であるのかにきづく。それが離れていてもつながっているということだという風景に。

あるいは、医療従事者たちに感謝と応援の気持ちを届けるための拍手を送るという行動もあった。
これもまた「自分にできること」の効果的な行動だったろう。
自分の思いを形にして、しかもそれを自分だけでなく多くの人の共感と参加につなげていった。
確かに多くの人が、医療従事者や介護職の人々に感謝の拍手を送るとき、それを知った現場の人々はきっと大いに力づけられただろう。
それでは、拍手を送ることで、ギリギリの命をかけての現場の困難は解消されるのだろうか。そんなことがあるはずはない。そういうことではないのだ。

拍手する側も、たぶん、そうした見返りを求めてのことではない。誰かが誰かのために何ができるか。これは功利や経済を突き抜けた人間原理の確認なのだろう。
それはたとえば、人は誰かを愛することによって、また誰かから愛されることによってはじめて、自分自身を愛する力を育むことができる。そんな深い人間の相互承認への拍手なのではなかったか。

つらさや困難の中で築かれたつながりこそが一番確かなつながりを生む。
「今、私たちにできること」、つらさの中だからこそ声をあげる。

「今、私たちにできること」、これはこの事態が生み出したムーブメントではあるが、誰かから言われたからといって成立するものではなく、そのことに呼応する多くの人々がいたからである。
あるいは、自分のSNSに近所の風景、空と雲の写真を載せる人。手作りの料理を美しく撮影する人。昔のアルバムの中の自分。この事態に言及することなく互いに交わし合うそんなささやかな情報の息遣いになぜあれほどの深い共感を覚えるのだろう。

そこにあるのは「当事者性」である。
言い換えれば、この国の一億の人々が、今、当事者経験をしている。当事者とは何か、ということを自分に課したのだ。一億総当事者であるという経験。

誰かが誰かのために、自分にできることを考えること。誰かのためが自分のためにもなり、そのためには沈黙するのではなく発信すること。怯えるのではなく考えること。そのことが自分の自分らしくを成立させ、共によく生きる社会への循環になるということ。
それが「当事者」であることだ。

この事態の当事者であることの自覚が、この事態を生き延びる私たちのただ一つの道筋かもしれない。

「今、私たちにできること」、そう、そのことをずっと言い続けてきたのだよ。
認知症の当事者の声も聞こえる。

|第139回 2020.5.11|

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