認知症EYES独自視点のニュース解説とコラム
  • 医療

「長谷川和夫を体験する」ということ

コラム町永 俊雄

▲長谷川和夫さんはいつも「人が人と支え合う」「安心して暮らすことができる社会」と語り、思えば、この社会をずっと励まし続けた生涯だった。

長谷川和夫さんが亡くなられた。
敬虔なクリスチャンであったから、天に召されたというのがいいのかもしれない。自分の人生を生き抜き、その使命を果たして天に召されたと言うのが、いかにも先生の人格と生涯を語るふさわしさを感じる。

私は、長谷川和夫さんとは講演会や会議、フォーラムや小さな勉強会のような場でよくご一緒した。いわば、先生の研究や実践、とりわけ先生の思いと市民社会との接点に立ち会ってきた立場に過ぎない。

長谷川さん自身は、早くから発信することを大切に考えてきたところがある。自分の認知症への思いを正しく伝えていくことが、つらさや困難の中にある人に何らかの役に立つのなら、なんでもできることをしたい、そんな風に語ったこともある。
であれば、私自身が「体験」した長谷川和夫さんについてのいささかを記すことができたら、それは私にとってはなによりの長谷川和夫先生を偲ぶよすがとなるだろう。

思えば、長谷川さんは生涯かけて同じ一つのことを繰り返し語っていたような気がする。それは「人間」についてである。
2014年11月に東京六本木ヒルズで開催された国際会議、認知症サミット日本後継イベントは、当事者の藤田和子さんや丹野智文さんのスピーチで幕を開け、翌年の認知症国家戦略・新オレンジプランにつながる、現在の認知症施策の転機となる大きなイベントだった。
私はこの会議の総合司会をしたので、長谷川和夫さんとは各セッションの議長やパネリストとして会場を飛び交うようにしていた姿に何度も行き合った。その度に長谷川さんは「ヨッ」と、いつもの軽く右手を上げるポーズで、「大変だね」と声をかけてくれた。いや、はるかに大変なのは長谷川さんなのである。

2日目の本会議のセッションでは長谷川和夫さんはパネリストとして各国の研究者たちと登壇していた。各国の認知症に関わる制度や政策、そのコストと成果といった報告が終わって討議に移り、最後に議長からドクターハセガワ、と指名があった。その時の長谷川さんの発言は今もありありと甦る。

「各国から制度やその評価などが論じられましたが、最終的なところでは、人が人を支えるということを忘れてはならない。重要なことは、人が人を支えること、それは一般の市民、パワー・オブ・ネイバーフッドなのです」
長谷川さんはそう発言し、そしてさらに繰り返すようにして・・
「その時一番大切なことは・・・」
次の言葉はなかなか出てこなかった。長谷川さんは手元の資料に目を落としてどこかを探すようなそぶりを見せ、隣の議長は少し心配そうに見つめる。
「一番重要なことは・・・ですね・・・」
どのくらいの間があったのだろう。会場が少しざわついてきたようにも思えた頃、長谷川さんは手元の資料を振り切るようにして顔を上げ、決然として言葉を放った。
「それは、平和です!」 待ちかねていた会場からドッと拍手が湧いた。

長谷川さんの2015年10月の日記には自身の変調を自覚し、「講演で自分が何を話すべきか時々わからなくなった」と記されている。
あの国際会議の時すでに「あるいは」、という思いもよぎるが、むしろ長谷川さんは徐々に自分の本当に言いたいことを、他を削ぎ落とすようにして「言わなければならないこと」として語っていたのかもしれない。一番大切なことは、人が人を支えるということ。パワー・オブ・ネイバーフッド(市民同士の隣人として力)なのだ、と。

同じ言葉に、私は14年前の2007年10月にNHK大阪のホールでの認知症フォーラムで出会っていた。
その認知症フォーラムの最後に、長谷川さんはこう語っている。
「私は認知症対策の最終ゴールは、やっぱりまちづくりじゃないかと思うんです。一握りの専門家がいるとか、ある施設がいいというだけでは、認知症の人は本当に安心して暮らせない。やはり市民一人一人がちょっとした支え合いができれば、認知症になっても大丈夫な社会になると思うんです。」

当時はまだまだ認知症を語ることは医療と介護からの支援や対策に傾斜していた頃だった。
この時すでに、長谷川さんはパワー・オブ・ネイバーフッドを語り、まちづくりを通しての認知症にやさしい地域を呼びかけていたのだった。

そのまちづくりに関しては、さらにさかのぼる2004年10月に、京都で開かれた国際アルツハイマー病協会国際会議で、長谷川さんは「痴呆の人とともに暮らすまちづくり」を開いている。私も関わっている現在の「認知症の人とともに生きるまちづくり」の源流だ。長谷川和夫さんが実行委員長で、さわやか福祉財団の堀田力さんが選考委員長だった。その2004年時点での実施要項を読むと、その先駆性には驚くしかない。このように記されている。

「本キャンペーンは、痴呆の人と痴呆の人を支える人がともに安心して暮らせる町づくりの、全国で学び合うためのモデルとなる先駆的な活動を奨励する意味での賞です」
そして、その選考基準の冒頭に高々とした長谷川さんの声が響くようにして、こう記されている。

「痴呆の人の輝く姿がいきいきと描かれているか」

まさに輝く一行だ。まだ「恍惚の人」のイメージで語られていた痴呆の人を、その輝く人間性を描き、ともに安心して暮らせるまちづくりを呼びかけたのである。
では、パーソンセンタードケアにつながる長谷川さんの、こうした人間の思想はどこから生まれたのだろう。

時制はさらに遡る。長谷川さんは、2001年に認知症介護研究・研修センターの初代東京センター長に就任する。ここで、認知症の専門職の人々、介護の現場、認知症の人の暮らしに接して自身の関わる認知症の世界をさらに深めていく。

その頃のエピソードで私にはとても印象的な長谷川さんの記述がある。
認知症が進行し、過去のことや家族のこともすっかり忘却したと見えた人を診察している時、長谷川さんは、ふとこう思ったと言う。(認知症ケアの心・ぬくもりの絆を創る)。

「そこに座っておられる方の存在そのものが記憶である」

そう感じ、そこから、Being(存在する)とする人間としての尊厳に触れた想いがすると記し、どのようになったとしてもそこに生き生きとした心を持つ人間の存在を見なければならないとした。
長谷川さんの基底に据えられた人間観をここに見ることができる。そしてそれは生涯通じて変わることなく貫かれた。

2017年に長谷川和夫さんは自身が認知症であることを公表した。
認知症になった長谷川さんは、今度は認知症になってわかったことを次々に発信した。NHKスペシャル「認知症の第一人者が認知症になった」では、「確かさが失われていく」と、その不安やよるべのなさを伝える一方で、しかし認知症になっても「見える風景は変わらない」とも語った。

11月13日、長谷川和夫さんは亡くなった。
多くの紙面に長谷川さんの業績や人柄を偲ぶ記事が載った。それを読みながら改めてその足跡の偉大を思うしかないが、同時に微かな違和感も持つのである。このような業績と経歴の羅列と礼賛だけで、果たして長谷川さんを語ることになるのだろうか。
痴呆と言われていた時代から「認知症になっても安心の社会を」と語りかけてきた長谷川さんが、自身が認知症になって発信したことを、果たして社会は受け止めているのだろうか。

その人を偲ぶことは、その人の人生を誠実に遡行することである。
認知症と診断されて3年経った頃、長女の南高まりさんと長谷川さんの共著として「父と娘の認知症日記」が出版された。これは長谷川さん自身と、父であり、認知症専門医であり、そしてひとりの認知症の人に、もっとも身近に寄り添った娘との交換日記というすぐれた記録である。

実はこの本の素晴らしさは行間に潜む。これを読むと、長谷川さんの日常のエピソードのそれぞれの背後に喪失の悲哀を感じ取ることができる。もちろんどこにも暴露的な筆致はない。むしろ、その出来事を受け入れていくことで、この本の帯のキャッチコピー通りの「心豊かに生きるヒント」に転化されたあたたかな文章となっている。
しかしこの、娘との日記という私生活に滲む悲哀を、全て私たちの側にとって都合の良い、心地よい認知症物語に読み替えてしまっていいのだろうか。

私は長谷川さん自身が認知症になって伝えたかったことは、こうした確かさが失われていくことの哀しみであり、認知症になることのつらさなのではなかったかと思う。
喪失から目を逸らさず、死をも視野に収めながら、どこかうろたえたり嘆いたりしながら長谷川さんは自分の暮らしを過ごしてきた。日記には、その日常の断章に潜り込むこうした長谷川さんの心情があちこちに感じとれるのである。この日記の本当の意味での真実は、読む側の想像力と共感でしか浮かび上がってこない。

敬虔なクリスチャンであった長谷川さんは、認知症になって以来、自身を見つめ直し、肩書き、経歴、業績といったいわば俗世の虚飾をすべて振り落としながら、自分自身という「人間」に立ち返っていったのかもしれない。自分の弱さや戸惑いを引き受けながら、一人では何もできない生まれたままの素の「人間」に立ち返っていった。

こうした受け止めは、長谷川さんの業績や威厳を損なうことなのだろうか。私はそうは思わない。天に向かって、先生、確かに受け止めました。私もそのようにしっかりと嘆きながら喪失を歩んでいきます、そう伝えたい。

社会福祉では今、負の肯定、弱さの公開という概念が注目されている。ポジティブであることばかりが追求される社会は、人々を追い詰め、認知症の排除にはたらいてしまう。ネガティブな思考、弱さを抱きしめるようにして、この社会は誰もが一人では生きていけないという根源的な弱さを分かち合い、そして「安心して認知症になれる社会」に再生していく。

長谷川和夫さんは身をもってそのことを発信して天に召されたのだ。
亡くなられて関係者だけの葬儀で、ずっと父、長谷川和夫さんに付き添い続けてきた長女の南高まりさんはいよいよお別れのとき、棺に向かって「ありがとう」と、痛切な声をかけたという。
それは、娘が父を送る声であり、また同時に、父を超えたひとりの生き抜いた人間の存在にかけられた深い感謝の声のようにも聞こえ、参列者の涙を誘ったという。

長谷川和夫先生、さようなら。
長谷川和夫先生、ありがとう。

※参考:長谷川和夫さんが描く「認知症」

|第194回 2021.12.8|