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今年2024年を振り返る 〜私たちの「いとなみとなりわい」を取り戻す〜

コラム町永 俊雄

▲奥能登の夕暮れ。能登の空は広く美しい。瓦礫と泥濘の街でも見上げれば空が広がる。遠く離れていても、ともに暮れる空を見上げて暮れていく今年を振り返る。(写真提供・NPO じっくらあと 小浦詩さん)

能登半島の奥能登で被災した友人は、「地域」とは言わない。ふるさとを「いとなみとなりわい」の舞台と語る。
震災と豪雨という二重被災、天を呪い地を恨んで当然の絶望の中から、ふるさとの「いとなみとなりわい」を取り戻すと、友人は小さく、しかし心決める強さを滲ませ、そうつぶやく。

「地域」と言う時、どうしてもそこに暮らす一人ひとりの顔や姿が見えてこない。
「いとなみ」とは、日々の暮らしで、その語感の息遣いに響くのは、日々を懸命に生きる人々の笑い声や、全てを根こそぎ奪われたひたすらの哀しみである。

「なりわい」とは、暮らしを成り立たせるための仕事の意なのだが、能登での「なりわい」は、はるかな先達たちの想いと文化を継承する志に裏打ちされている。朝市、輪島塗り、農業に漁業、どんな「なりわい」も文化であり伝統なのだとする能登の人々の誇りに輝く。
が、ことしの能登の人々の「いとなみとなりわい」は、涙でじっとりと重い。

今年2024年、私たちはそれぞれの「いとなみとなりわい」を見つめ直す年であったのかもしれない。「地域」として、そこに暮らす人々を一括りにして匿名化し、高齢化率や人口減少のデータで課題を突きつけられることへの生活者の静かな反乱が起きているのではないか。
私たちは「地域」に封じ込められた匿名の存在ではない。
各地に、「いとなみとなりわい」の主体であり、日々「いとなみとなりわい」を作り続けるヒトなのだと、立ち込める霧のかなたから立ち現れたような人々がいる。

いつも年の終わりは息を大きく吸い込むようにして、その年を総括する季節でもある。
とりわけこの一年の始まりが、能登半島地震だったことは、まさに全国の人心をも大きく揺さぶった。そして、思えば能登半島地震発災のその日に、ひっそりと認知症基本法が施行されていた。

あの時は、半島を襲った大震災に、認知症基本法への抱負や希望など語ることもどこかはばかられ、それぞれを個別の事象として受け止めざるを得なかった。
だがこの年の終わりに改めて俯瞰すれば、能登半島の大震災と、共生社会の実現を推進するためとする認知症基本法とは、不思議な符号で共振しているかのようである。

能登半島の被災地には、自身を「被災者」と括られるよりも、どんな困難の中にあってもふるさと能登に暮らし続けたいという意思を示す一群の人々が現れている。
震災の時、上下水道の途絶や冬の寒さの中、二次避難せざるを得ない多くの高齢者がいた。あるいは生あるうちに再び故郷には戻れないかもしれないそうしたお年寄りのことを思えば、なんとしても、ふるさとの「いとなみとなりわい」を取り戻す、そう念じた人々である。

そして震災と同じ日、今年の1月1日に施行された共生社会の実現を推進するための認知症基本法は、認知症であろうとなかろうと、誰もが基本的人権を享有する個人として、自らの意思によって生活を営むことができる社会を、その基本理念としてたかだかと謳っている。

能登半島地震と認知症基本法。ふたつの別々の事象に通底する思いは、共に暮らしの主人公は自分たちであると言う改めての宣言だろう。

与えられる復旧ではなく、被災した当事者と共に取り組む創造的復興(build back better)。
与えられた共生社会ではなく、自分たちが参画して創る共に生きる社会。
それはこの社会を創るのは、自分という社会の成員一人ひとりであり、自分たちの意思決定のプロセスこそが「地域」であり、「いとなみとなりわい」なのだと言うことの確認と自覚である。

この道筋を辿るとすれば、今年一年だけのスパンでは見えにくい。もう少し視程を広げて辿れば、わたしたちの意思の成り立ちが浮き上がってくる。

2011年、東日本大震災と原発事故。
あの新型コロナウイルスのパンデミックに席巻されたのが、2020年から2023年の5月に及ぶ3年以上にわたる日々だった。
そして、今年2024年に能登半島地震と、そして認知症基本法の施行が同時に起きた。

この10年余で、私たちは試練というにはあまりに過酷なカタストロフィを潜り抜けた。生き抜いたと言ってもいい。その試練の連続は私たちに何をもたらしたのか。
その間、幾多の政策施策の迷走もあり、私たちの暮らしは振り回された。いのちと暮らしは失われ、私たちのあたりまえの日常は奪われる経験を強いられ続けた。
そうした不安の中、人々は自分たちのかけがえのないいのちと暮らしは、自分たちで守るしかないことにじわじわと気づき始めていく。

そして、列島の大変動のさなか、人々が自分たちの地域は自分たちで作るしかないことに踏み切らざるをえないきっかけもあらわれた。地域共生社会が打ち出されたのである。

東日本大震災から5年後、2016年7月に厚生労働省は「地域共生社会実現本部」を立ち上げ、「地域共生社会」を推進するとした。
厚労省によれば、この「地域共生社会政策」は、1961年の「国民皆年金皆保険」、2000年の「介護保険制度」に匹敵する「戦後第3の節目」と位置づけられているという。

そのような大変革の布石だとは思わず、当時この「地域共生社会」に、私たち世間は随分と冷ややかだった。それは公的責任の放棄であって、施策の限界を私たち生活者の側に押し付けているに過ぎないのではないか、と。
それは無理もないことだった。地域共生社会というものが地域に暮らす生活者の側の発想から生まれたものでない以上、それはやはり従来の社会福祉行政の枠の中にとどまるしかなかった。

しかしこの間、不思議な符合も起きていた。社会の基盤が揺らいでいるさなかに、実は認知症当事者の発信が相次いでいたのである。小さな声の集合がやがて地域の人々に共鳴し、2014年には、「日本認知症ワーキンググループ」が発足、翌2015年には認知症施策の大転換とされる新オレンジプラン、認知症国家戦略が出された。

声を上げたのは、診断によって自分と尊厳と暮らしを奪われたとする認知症当事者たちであったのは、不安な時代の空気の中で、多くの人の共感を呼んだ。そこで言い交わされたのが、「認知症と共に生きる」だった。

ラン伴、認知症カフェ、まちづくり、「共に生きる」とする地域共生社会は、市民的なゆるやかで確かなつながりの中に広がりを見せていった。地域は自分たちで創る、として。

あの不安に満ちた10年余に人々が動いたのは、そうしなければ自分たちの地域社会が崩れ去る予感をどこかで感じていたのではないか。そうした人々にとって「認知症」は「自分ごと」への確かな手がかりだったのである。「認知症」が社会をケアした。

その「自分ごと」を市民責務として私たちが改めて実感し獲得しなおしたのは、やはり能登半島地震と豪雨災害の二重被災の人々の存在だった。
能登の人々にとっては、震災から9ヶ月経ってようやく歩みだそうとしたその矢先の豪雨災害だった。絶望しかなかったと最近になってようやく声を出した友人は語った。

震災からやっとの思いで改装した奥能登のクリニックは無残に泥に埋まり、せっかく新しくふきなおした床板を剥がし、きれいに修復した壁を崩して大量の泥を掻き出す作業が際限なく続いた。
際限ないのは、掻き出しても掻き出してもちっとも減らない泥であったのか、流しても流しても溢れる涙であったのか。

かける言葉がない。どう声をかければいいのか。能登から遠く離れた私達の仲間でそう言い合った。それを伝え聞いた被災した友人は、その気持はよく分かる。自分が逆の立場であったら同じだろう。だが、そう思ってくれている人がどこかにいる、そのことを支えとしている、と友人は言ってきた。それは、私たちが改めての「自分ごと」を獲得した瞬間だったろう。私たちは、能登の人々から励まされたのだ。

かける言葉がない、何もできない、そのことを「何もしない」ことの免責とするのではなく、では何が私達にできるのか。振り返るようにしてこの社会を変えるに、何ができるのか。そのようにして彼我の「自分ごと」が共振したのである。
「共に生きる」ということが互いの与え合う力になる。そのように思えたとき、地域共生が成り立つ。

能登半島では震災からの復興を創造的復興(build back better)とし、被災した人々と共に暮らしや祭りの再興を大きな目標としている。「能登の特色あるなりわいの再建」「暮らしとコミュニティの再建」の文言が中期プランにあるのは「いとなみとなりわい」を取り戻すという能登の人々の想いが反映している。

能登は本州最後のトキの生息地だった。
かつて能登の大空には美しいピンクの羽を広げ、トキが舞っていたという。そのトキの放鳥計画が能登の創造的復興のシンボルとして計画されている。

トキの学名は、「ニッポニア・ニッポン」である。ニッポンが再び空高く舞い上がる日は、ともに生きることの向こうに見えている。

|第302回 2024.12.24|

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