認知症の治療薬開発のニュースは出ては消えている。開発のめどが立った、というものやら、開発の道が拓けたといったニュアンスのものがほとんどである。創薬開発の難しさと巨額のコストもあり、門外漢が期待する「成功!」という見出しはそう簡単に踊るものではないらしい。
とは言っても確実に研究開発は加速している。2013年にロンドンで初めて開催されたG8の閣僚級による認知症サミットでは、その治療薬を2025年までに開発することを目標にすると宣言している。そのために各国は研究費を大幅に増やすとしているのだ。認知症治療薬の開発成功にどの国が一番乗りを上げるのか、熾烈な国際間競争でもある。
とは言っても、現時点ではまだまだ現実化は程遠いようでもあるのだが、いつかは認知症の根本的な治療薬が出現する日が来るかもしれない。当然ながら「早く認知症を治す薬を」という切実な声がある。これは認知症の当事者や家族の会でも必ずと言っていいほど出る声だ。
しかし一方で認知症国家戦略(新オレンジプラン)の柱として「認知症にやさしい社会」という時、こうした声を私たちはどう捉えるのだろうか。というのも、これまでの認知症当事者を含めた認知症活動の根本には、「現時点では治らない」ということを前提に築き上げてきたところがある。大雑把に言ってしまえば、治らない以上「認知症と共に生きる社会」を、という提起となっている。
未来のどこかの時点で「認知症根治薬」が登場するとしたら、その時この社会の認知症観は変質するのだろうか。根本的治療薬が出現したとしたら、それまでの「認知症と共に生きる社会」の構築は無用のものになってしまうのだろうか。
私自身は、例えば、ペニシリンの登場とは全く違った性格のものだろうとは思っている。認知症治療薬で「疾患」は追放出来ても「老い」は防げないからである。別の見方をすれば、世界の伝染病克服の過程で公衆衛生の概念が定着し、あるいはハンセン病特効薬の出現が、それまでの世間の根深い「偏見」の告発にもつながったように、認知症根治薬の登場は、この社会のあり様を大きく変えることに繋がるかもしれない。
もちろん、その日がまだまだずっと先のことかもしれないし、あるいは明日のニュースとなって世界を駆け巡るかもしれない。そのことを考えるとコトは医療の課題だけとしてはならない。可能性の大小とは別に、私は「認知症が治る時代をどう考えるか」といった命題のもと、医療経済のみならず、政策や文化観、死生観も動員して、医療、介護、家族、地域、そして認知症当事者を含めた社会全体で語り始めてもいいのではないかと思っている。
新たな認知症観の構築に向かって議論すべきことは少なくない。
| 第25回 2016.02.12 |