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「聴く力」が扉を開く

コラム町永 俊雄

▲ 名古屋市のオレンジドアのポスター。「もーやっこ」というのは「みんなで仲良く分け合う」という名古屋弁。
認知症当事者で代表の山田真由美さんの思いっきりの笑顔が、何より、もーやっこを呼びかけている。

「おれんじドア」が、もうひとつ、その扉を開こうとしている。
NHKが、認知症の女性が名古屋市西区の専門部会の委員に任命されたことを報じた。任命されたのは名古屋市西区の山田真由美さん。山田さんは6年前にアルツハイマー型認知症と診断された。
山田さんが委員となったのは認知症に関わる施策を考える専門部会だ。山田さんの提案で、6月から認知症の当事者自身が認知症の人や家族の相談に応ずる窓口が名古屋市西区に出来た。報道によれば、行政の関連機関で当事者による相談窓口を設けるのは全国的にも初めてではないかということだ。
その名称が、「おれんじドア」なのだ。仙台市で丹野さんが取り組んでいる「おれんじドア」を見学した山田さんの命名だろう。いいなあ。当事者の思いがつながり広がっていく。当事者の思いというのは、実はこうしたところに一番込められているのかもしれない。ADI京都以降、世界の当事者の声に接したこの社会の一画が揺り動かされている。新オレンジプランでも「当事者の参画」を推し進めており、その成果の一つがこの名古屋での相談窓口の開設だろう。
しかし、その一方で、こんなに認知症の当事者に押し付けていいのかという素朴な後ろめたさもつきまとう。つらさと困難の中にいる認知症当事者の声や発信でしか、この社会は動かないのだろうか。それはどこか理不尽なことなのではないか、私たちは動かず、素晴らしいなあと手を叩いていればいいのか、どこか認知症でない私達の怠慢はないのか。
しかし、更にその一方で、この社会の奥深くの地殻変動の響きも感じられる。それは聴く側の変化だ。当事者の声を聴くということを自身の実践に共鳴させている。それはまず、「認知症」に一番熱心に取り組んでいる一群の人々の反応に現れた。「聴いたものの責任、知ったものの責任というものがある」と、ある人は自身に言い聞かせるようにして表明した。ここにあるのは「聴く」ことが受け身ではなく能動であり、まさにアクションであるということだ。こうした人々に共通しているのは「聴き取る力」が深く鋭いことだ。表面的な「聞く」というより、自分自身を掘り起こすような聴き方なのである。だから、「聴く」こと自体に力があり、そのことがそれぞれの現場と実践を成り立たせている。

考えるまでもなく、「聴く人」がいるから当事者の発信が成り立つ。聴く人がいなければ、当事者はいないことになり見えない存在として「患者」のレッテルの中にしか生きられなかった。良き「聴く人」が当事者発信を生んだ。
今、名古屋にも「おれんじドア も〜やっこなごや」が出来て、ドアを開くとそこには当事者としての「聴く人」がいる。山田真由美さんがいて、その背後に名古屋市のいきいき支援センターなどの関係する人々がいて、さらにその周りに多くの人が繋がっている。「聴くこと」は関わることであり、「力」の源であり、当事者と自分とが相互に支え合うことの確認だ。
「聴くこと」の力が地域の隅々にまで行き渡っている社会。おれんじドアを開くとそんな未来が見えてこないか。

|第48回 2017.6.14|