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「認知症」を語るということ

コラム町永 俊雄

▲ 仙台の「宮城の認知症をともに考える会」での講演。今の日本で、市民とともに認知症を語り合う最も熱心で先駆的な取り組みの一つだろう。

私は一応、社会福祉をテーマとして活動している。一応、とわざわざ断るのは、果たして私にその資格があるかどうか、いまひとつよくわからないのである。でもまあ、虚業の常として、あちこちから講演の依頼が舞い込む。認知症のテーマも多い。ある韜晦(とうかい)の中で、私はこんな風に切り出す。
「私は医者でも専門職でも、また(しばしばそう見えるとしても)認知症の本人でもない。言って見れば専門家ではない」。
そういうと、「じゃ、帰ろ」とゾロゾロ席を立つ人がいても不思議ではないのだが、そこで私は力を込めてこう語る。「専門家でないからこそ、見えるものがある。それはなにか。それはこの社会総体に「認知症」を置いて語る視点。もうひとつは、私も認知症になり得るあなたと同じ生活者の一人としての視点で見ることができる」と。
認知症は、「べき論」で語るべきではない(という、べき論だが)。こうあるべきの「べき論」を振りかざした途端に、認知症は暮らしから切り離され、生活者の感覚を振り落としてしまう。

だから、私はよくこうした世間の声から語り始める。どう答える?
「認知症でも大丈夫、って嘘ですよね」
「認知症にはなりたくない」
「認知症の人を本当に理解できるのでしょうか」
さて、あなたはどう答えるだろうか。よくないのは「チッ、なんて問題意識が低いんだ」と吐き捨てて、背を向けて立ち去ることである。でもね、世間は実はこんな態度を貫いてきた。本音の声をスキップし、聞かなかったことにしてどんなに「認知症にやさしい社会」を説いたところで、砂糖菓子の甘い脆さだけが残る。
「認知症でも大丈夫って嘘でしょ」というのは、それは「認知症になると大丈夫ではない」という情報の方が圧倒的に多く、また、説得力をもって迫るからである。いわく、将来推計では予備群含めて認知症の人1300万人、介護費用が14,5兆円、徘徊死と車の逆走事故、介護離職の増大などなど、人々を震え上がらせる情報ばかりである。こうなれば「認知症にはなりたくない」と思うのは当然だ。だから「なりたくない」という声を封殺するつもりはない。ただ、コトの本質は「なりたくない」ということで、その瞬間に認知症への想像力の一切を遮断してしまうことにある。「なりたくない」と「考えたくない」を一緒くたにしてしまっているのである。老いに備えるように、一人ひとりが認知症への考えを深めることがやがて「認知症でも大丈夫」の道筋に繋っていく。
「認知症でないあなたは、認知症の人を理解できるのだろうか」
これはある意味、真摯に「認知症」に向き合う中で生まれた思いだ。風邪を引いた人に対しては誰もが親身に共感する。「大丈夫?つらいでしょうね」 それは、誰もが風邪を引いた経験を持つからである。では認知症の経験を持たない人は、認知症の人を理解できないのだろうか。
他者への共感と理解を生み出す福祉の原理は、自分と相手の立場の交換、と言われる。風邪を引いた人の立場を自分に置き換えることで、ごく自然に「大変ね」の声が出る。それが、認知症の人と自分の場合だと、なぜ、それができないのか。それは「認知症」と、「自分」の立場交換は不能だと思い込んでしまうからだ。そうではなく認知症の「人」と、「自分」との立場の交換だと考えることはできないだろうか。だって、風邪を引いた人への共感は、「風邪」と「自分」との立場交換ではなく、風邪を引いて鼻水を垂らしているその「人」と、「自分」との関係性で共感を寄せるのだから。

認知症の人の権利を訴えているオーストラリアのケイト・スワファーは、ADI京都で一つの標語を掲げた。
「SEE THE PERSON  NOT THE DEMENTIA・認知症でなく、その人を見て」
ケイトを含め認知症当事者は、何よりも一人の「ひと」として、私たちに「認知症」を語る。

▲ 4月の京都ADIでのケイト・スワファーさんの報告。「認知症」というレッテルでなく、その人を見よと呼びかけるケイト。自身の経験から権利を語り、多くの人の共感を呼んだ。

|第50回 2017.7.20|

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