▲ 「認知症当事者勉強会」の世話人会の様子。「認知症」に関わる全てのテーマを多角的に話し合おうという、医療、ケア、メディア、行政、ビジネス、研究者などの異業種の集まりである。下段右が今回の報告者、東京大学の井口高志氏。
先日、定期的に持っている認知症当事者勉強会で「当事者発信は何を語ってきたのか」という世話人会を持った。
報告者は、東京大学文学部准教授の井口高志さん。この世話人会というのは勉強会の本会に向けてのブリーフィングのようなもので、それだけに毎回闊達な議論が交差して、その場にいるだけで得るものは大きい。
井口さんは、80年代の家族介護に埋没していた本人の声が、やがて「思い」として浮き上がり、本人の意志的な歩み出しとともに現在の「主張・宣言する認知症の本人の登場」までを、時代相をくりこみながら考察していくもので、認知症の当事者発信それぞれを、世間、社会、そしてメディアにどのように受け止められたのかという相関の中で見ていく。
認知症の本人発信は、まさに「発信」だった。この社会の、いわば予期しない地点から声が起こるという新鮮な波動を呼び起こした。それは「痴呆への無理解、偏見」を打ち砕きながら切り拓いていった図式として捉えられる。しかし、ことは必ずしもそのように牧歌的な直線で進んだわけではない。
当事者研究に関わる誰もがその前史とするのは、2003年の認知症当事者クリスティーン・ブライデンの来日講演である。思えば痴呆が認知症と呼称変更されるのが2004年だから、当時の痴呆症環境からすればまさに彼女の講演は「衝撃」であった。
ただ、彼女の来日を「黒船来航」的に捉えるなら、それは正確ではない。彼女の来日がなぜ今日の当事者発信の隆盛に繋がっていったのか。それは実は聴く側にすでに、内圧的な問題意識があったことを忘れてはならない。
例えば、クリスティーン・ブライデンを見出し、日本に招聘した出雲市の看護師、石橋典子氏は、当初、認知症の本人だとは思わずに講演に接し、自分の認知症ケアとの同質に、これだ!と思ったと語っている。
当時、最も前向きに認知症の医療やケアに取り組んできた一群の人々にとっては、クリスティーンを「聴くこと」は、それぞれの認知症との取組みで感じていた課題や閉塞の在り処を的確に共有し、確認できたのだった。その人々はある種の必然でクリスティーンに出会い、次の必然としてそれぞれが当事者に向きあい、今日につなげたのである。
「当事者発信」の意味と力は実にここにある。
本人の声を「聴く」ことは、ああ、やはりそうだったのか。そういうことか、といった確認と確証を得ることで、いってみれば本人の声は、聴く人自身の内在する声を呼び起こすことにつながった。
発信する側と聴く側とが、響き合うようにして互いをエンパワーしてきた「関係性」が生まれたことを外しては、現在の認知症の人の発信も、これからの地平も正しく描けないだろう。
初期の、少数の認知症の当事者発信は、切り込むようにして社会を拓いていった。
そこに、「聴いた側」の覚悟と決意が集結していった。この稿の認知症当事者勉強会も、その頃に誕生して今に至っている。認知症の人の声を社会にどう届けるのか、勉強会のメンバーは、ある種の同志的結束の中、その「関係性」をどう見るのか、アドボカシー、イネブラー、パートナーと言った言葉で、「聴く側」の責務を探ろうとしていた。
それは昂揚した熱気には彩られたが、必ずしもうまくいかなかった。それがどうしてなのかよくわからない。あるいはそうした欧文脈の概念自体が、この社会風土に馴染まなかったのかもしれない。深く互いの心情を思いやるこの社会の柔らかな感性に、認知症の人の声は素直に届き、大きく急速な広がりを見せていく。
それは意外性を伴う驚くべき変革である。発信する認知症の人の人格的共鳴力があったことは指摘しつつ、この広がりからどこに向かうのか、新たな局面を考察しなければならない。
当事者発信の急速な拡大は幅広い世間の中に浸透し、その過程で、「発信する側」と「聴く側」の関係性のどこかが変質してきた。
井口高志氏はその変化のひとつに、本人と市民とのフェイスブックなどのSNSを通しての交流をあげる。そこでは本人とのカジュアルなやり取りがあり、そのことが協働的な本人発信のリアルを培っているとしている。
が、同時に、それはどこかで「発信する側」と「聴く側」の固定化で、「覚醒している当事者」と「教化され感動する聴く側」への分化もないわけではないだろう。
認知症の本人とのイベントで、ツーショットでピースサインする風景はこれまでにない当事者活動の広がりと親しみを引き起こしている。こうした変化は、退行ではないにしても、その拡散の方向性と深化をどう見ることができるだろうか。
当事者の発信が影響を広げるにつれ、様々な論考で、認知症の人の声が「引用」される。
認知症の人の言葉の「引用」は、これまでの認知症論に説得力を加え、当事者発信へのアカデミアの認証ともなった。
が、どこか自分に都合の良い認知症の人の誘導と形成に使われていないか。無意識にでも、自分に都合の良い本人の声を選択的に引用することで当事者発信を消費していないか、自戒を含め慎重な自己検証がなければならないだろう。
認知症の人の発信した「希望宣言」を、彼らの希望宣言でなく、我らの希望宣言とするためには「対話」が必要だ。
いつも認知症の人の話が「素晴らしいお話」で閉じるのは語る本人の本意ではあるまい。認知症の当事者発信といっても一括りにできるわけではない。発信は個別であり、屈託、葛藤、不安も述べられている。
SNSの、和やかな親密に満ちた風景だけでなく、もっとぎごちなくどこかできしみもみせながら対話ができたらいい。つながりというものは、キレイなものだけでない。ほのかな緊張感の中で、主体性を持って語り合うことに踏み出す覚悟は、互いにあるか。
2017年5月に大阪で世界の認知症当事者を集めてのフォーラムを持った。そのメンバーの一人、丹野智文氏と前夜会食した際に、思い切って彼に尋ねた。
「こんな事を聞いていいのかどうかわからないのだが、丹野さんはいつも笑顔でというが、どこかで進行する自分を考えたことはないのか。それは不安ではないのか」
会食の場はシンとした。彼は、噛みしめるようにして答えた。
「それを考えるより、今現在をしっかりと過ごしていきたい」
それでその場は終わった。そうだろうなあとそうだろうかという思いは残ったが、それでも踏み込み過ぎたかと反省したりした。
翌日、大阪の会場で世界の認知症の当事者と語り合い、それぞれ最後の発言になった。丹野智文氏が、フォーラムついてコメントした後、彼はこう付け加えた。
「そして、これからやがて私も進行するかもしれない。何年か後に再びこうした機会があった時には、言葉もうまく出ないかもしれない。でも、そんな私を見続けて欲しい」
私は、胸がいっぱいになった。昨夜、あれからホテルの一室で彼はどんな思いを去来させたのだろう。笑顔でいることが自分の使命としてきた彼の心に何が灯ったのだろう。私は言葉につまったまま、笑顔でこちらを見つめる丹野氏の顔だけにうなずいていた。
いうまでもないことだが、私はここで心地よい物語を披露するつもりは毛頭ない。本当に本人の主体につながるのなら、こうした関係性の深化を社会全体のものにする段階だろう。実際、その後丹野氏はよく自身の進行について語り、その中で自立や自己決定、権利にも触れるようになったと私は思う。
認知症の当事者発信は、発信者の側というよりそれを聴く側との関係性を検証していく局面に入っている。聴く側の認知症の人への主体的な関わり、問題意識や成熟度が、実は当事者発信力を生み出し前進させていくものなのである。
「認知症の本人の声を聴く」、それは聴いた側の声を聴くことである。
|第94回 2019.2.13|