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認知症とコロナ、つぶやき日記抄・2020

コラム町永 俊雄

▲この一年、皆さんはどんな語りとどんな表情をしたのだろう。喜怒哀楽というが、むしろ無表情の不安の時間が長かった。そんなこんなも吹き飛ばし、あえて年に一度の、ひとり忘年会でハメ外しのコラージュ。どうかご寛恕のほどを。

この一年も締めくくりの時期だが、いまなお濁流のような進行形であり、とても総括など出来はしない。
その中でただ惑い、イラだち、そして日々の向こうに透かし見るようにして何をコラムやSNSで発信したのか。時系列に蛇行する私自身のつぶやき、今年一年分ダイジェスト!



新成人諸君よ。
成人式では、市長や町長が期待と抱負と祝福を述べたであろう。
でもね、ナイショで教えてあげるが、キミたちのこれからの人生はかなりつらいものとなるだろう。そもそも若い時というのは、実はつらいことがかなり多い。恋に破れ、仕事に行き詰まり、人間関係に悩み、家族をうとみ、自分に自信が持てなくなることの連続だ(ほとんど私のことを言っている)。
でもね、若さはいつもそこから立ち上がる。悩みや失敗は、いつか人生の糧になる。失敗してもやり直せるのが若さの特権だ。
それは、この人生の終盤にさしかかる私には眩しいほどに羨ましい。キミたちには失敗できる時間があるのだ。(1月14日)

───年の初めは、こんな風に抱負を語ることができた。このあとすぐに新型コロナウイルスに時代は巻き込まれる


 


新型コロナウイルスの収束の姿はなかなか見えてこない。
とにかく今は感染対策を濃厚にするしかないのだろう。
でもそれとは別の底深い不安がザワザワと打ち寄せている。
次々とイベントや集まりが中止となり、交通機関での移動も外出も控え、渡航制限もかけられた。暮らしの中の人々の交流が途絶え、地域と街のにぎわいがひっそりとし、身を潜めて暮らすようになるのだろうか。
世界が閉じていく。
目の前に次々と閉じていくのは、小さな暮らしの楽しみであり、ささやかな未来である。
だが、本当のウイルスの警告は、何に向かっているのだろう。
現代は国境自体がボーダレスで誰もが自由に行き来し、肌の色違う人々が交流することが文化を育て、争いのない世界になることを夢見てきた。
だが、ボーダーレス化は世界経済の財の行き来だけが突出し、「マネー」という制御不能のモンスターを生み出し、世界はグローバルマーケットという新たな君主の前にひれ伏すしかなくなった。
世界はその扉をなんのために開いてきたのか。
文化や歴史や宗教も異なる世界の人々が自由に交流し、相互理解と平和と地球の環境価値を共有するためではなかったのか。
今、閉じていく世界を目撃しながら、このウイルスは実は、この世界のあり方の病理を攻撃しているのではないか、ふとそんな想いにもかられる。(2月25日)

───2月になると、この事態に一気に感染対策が叫ばれる。その中で私はこの社会の存在の不安定に怯えていた。この思いが起点だった

 
 


円覚寺の茶屋で休んでいたときに、何かの話の流れでうちの奥さんが、「あなた、自分が先に逝くと思っているでしょ。わからないわよ。私が先かもしれないわ」と言った。
だとすれば、靴下とパンツの場所を教えてもらっておかないとな、と笑って紛らわせたが、その時ふいに、この人のいない風景の哀しみが、一瞬ありありと目の前をよぎったような気がした。(3月2日)

敵はウイルスであって、感染者ではない。
しかし一方で、感染拡大を防ぐことがいちばんの手立てであり、今のところこれしかない。
となると、私たちにとって感染者とはどういう存在なのか。それは否定される人なのか。加害の人なのか。
だが、感染者を否定した瞬間に、私たちは頼みの綱の共生社会のつながりを、我が手で断ち切る事になる。(3月2日)

感染対策の鉄則は、感染者と接触を避けることである。人混みやイベントの忌避はそのためだ。私たちは、感染者を遠ざけ見えない存在にするしかない。
だが、私たちはそこにもう一つの鉄則を加えることができる。
「接触はしないが、排除はしない」という鉄則を。(3月2日)

今、私たちは、自分たちのつながりがまだまだ弱いのか、それとも、つながっている強さを確かに手にしているのか、よくわからない。いずれにしろ、この事態を生き延び、試練を乗り越えた時、私たちのつながる力を再び確かにつなぎ合わせていくしかない。(3月2日)

私は、ウイルスの脅威より、「この事態なのだから」として、私たちの小さくかけがえない暮らしの力をなぎ倒す声の方が、よほど怖い。(3月11日)

これまで福祉は誰かがやってくれるもので、生活者とは、常に福祉や施策のエンドユーザーと位置付けられ、サービスを受ける側の側面でしか見られてこなかった。ところがこの事態で、これまで従順なだけとみなされてきた生活者が、市民として立ち現れ、自分たちの行動が、この国の命運を握っていることに気づいたのである。(4月23日)

───4月16日、緊急事態宣言が全国に拡大

 
 


恐怖や怯えからは、未来は開けない。
未来を暮らしていく主体である私たちや子供たちは、恐怖や怯えの中を生きて行きたくない。(5月1日)

母の日の昨日、ケーキを買いに行く。
母の日というよりババの日なのだが、そういうことを口にしてはいけない。
車で行けば三密は回避できる。助手席の奥さんとは距離的には「密」になるが、かといってトランクに押し込むわけにはいかない。
心情的には何億光年もの銀河の距離があるので、収支は合うはずだ。(5月10日)

「今日もいい天気!」とただ青空の写真を誰にでもなく送る年若い介護職員に、胸にこみ上げるような深い共感を覚えるのはなぜだろう。(5月11日)

いつもは音楽を聴きながら読書するのがささやかな贅沢なのだが、このブルックナーを聞くときは、音楽に吸い込まれ、たいてい本を閉じてしまう。
大好きな藤沢周平を読んでいても、本の中の剣客たちが刀を収めてゾロゾロと一緒に聴き入ってしまうのだ。(5月16日)

───このあたりは懸命に日常を維持しようとする書き込みだ

 
 


閣僚の誰もがマスクで顔の半分を覆って発言し、それは意地悪く見れば具合よくごまかしの表情を隠す有効な手段になっているように見えてならない。マスクの陰に、私たちはごまかされ続けているような気がしてならない。(5月19日)

───ただ、イラ立っていた

 
 


この事態の本当の深刻なところは、善良な市民、家庭人、生活者が容易に排除と差別を行使してしまう脆弱性を持っていることをあらわにしたことです。さらにはこのネット社会には秘密警察的な監視社会への伏線が張り巡らされていることにも気づかせてしまいました。
このウイルスの怖さとは、私たちの社会の側にあるそうした負の装置と感情を揺り起こしてしまう毒性にあるのかもしれません。(5月22日)

今、私のしたいことの一つは、認知症の人に、認知症になるまでの日々をじっくりと聞いていくインタビューだ。「その日から」ではなく「その日までの日々」を聴く。
その人の青春や恋や家族や仕事のことを、一緒にうなずき笑い語り合い、そして最後に、「その半年後に、認知症と診断されたのですね」と、そっと添えるようにしてインタビューをそこで終える。(6月25日)

ここではないどこか、Anywhere But Here を見た人たち、自分の不安を見つめ続けた認知症の人たちから見ると、この現在はどのように映るのだろう。(7月22日)

7月24日は芥川龍之介の河童忌、近代文壇の光芒となった稀代の才能がみずからの命を絶った日だ。「ぼんやりとした不安」という謎めいた言葉を遺して。
今、このコロナの時代を透かすようにして見れば、その「ぼんやりとした不安」が時代の亡霊のようにしてひっそりと、この社会の行く手にさまよっている。ハムレットの父王のように・・ (7月24日)

認知症をめぐっては、「認知症になっても安心の社会」と言われてきた。が、ここには、認知症という「重荷」を抱えていることを前提に描いているのではないかという当事者の声を受け、今は「安心して認知症になることができる社会」と進化している。(8月14日)

「認知症になっても安心の社会」というのは、とてもわかりやすい。しかし、わかりやすさにはあやうさもあって、実はそれは、誰もの共有している「常識」に響くからである。その常識とは何か。それは「認知症になると大変であり、つらく困難な暮らしになるはず」という思い込みだ。この「常識」を前提にして、この標語は語られている。
そこにあるのは、「認知症になってしまった人」という他者性へのやさしさの擬態である。この言葉には、「認知症にならずにすんでいる」側の無意識のマジョリティと健常性優位のおごりが感じ取れる。(8月27日)

マギーズ東京センターの秋山正子さんは、がん患者、家族の思いにひたすら耳を傾けてきた。多分、つらい話、悲しい思い、厳しい話の数々を耳にしてきたはずだ。でも秋山さんの話はいつも柔らかい。この人が「大丈夫よ」という時、その背後の庭や空や雲も微笑むようである。
社会の一角の声あげられない人々に寄り添うということは、どこか制度や理論、理念を超えて、こうした人格の全体性で包み込んでいくような力が必要なのだろう。(9月26日)

夫にも話せない自分のがん体験を、自ら患者会を立ち上げ新たな人生を切り開いた女性に、「がん体験を通じてあなたは変わったのでしょうか」と聞くと、
「いいえ、私は私であることにずっと変わりはない。ただ、がんによってそのことに気づいたのです」 (9月26日)

───がんフォーラムでの言葉。がんや認知症の当事者の言葉でかろうじて安定をとりもどす社会

 
 


自分勝手を多様性とし、もたれあいを共生とするこの社会の粉飾決算。
見たくない不安の代わりに希望を置いて安心したいだけの社会は、ハリボテの社会だ。(10月2日)

昨夜のNHKBSプレミアムの「伝説のコンサート・山口百恵」
見た、見つめた。百恵を見て昭和を見て、あの頃の自分を見たような気がした。
プレイバックにプレイバックし、ロックンロール・ウィドウにのけぞり、「青い果実」の「あなたが望むなら 私何をされてもいいわ」 にオジサンはうろたえ、秋桜には不覚にも慟哭し、「百恵ちゃん」という少女がオンナになるのを呆然と見つめ、昭和の同じ空気を吸い込んでいた。(10月4日)

───オジサンにも青春はあったのだ

 
 


ありていに言えば、この作品の多くは他者性のまなざしで、「認知症の人」を良き人間として書き換えた成功物語として描いている。それは意地悪く言えば、健常者の側の都合の良い「認知症者像」の再生産であると言えなくもない。(10月18日)

───認知症のショートフイルムコンテストでのコメント

 
 


貨幣経済に先立つ私たちの共生の社会は、あたえ合う贈与(gift)の社会だったと言われる。支え合いが、福祉の言葉の限定であるのなら、あたえ合うということは「ともに生きる」ことのメッセージだ。(10月28日)

「私は認知症対策の最終ゴールは、やっぱりまちづくりじゃないかと思うんです。一握りの専門家がいるとか、ある施設がいいというだけでは、認知症の人は本当に安心して暮らせない。やはり市民一人一人がちょっとした支え合いができれば、認知症になっても大丈夫な社会になると思うんです」 (2007フォーラム)

───2007年の時のフォーラムでの長谷川和夫先生の言葉。今年のNHKスペシャル「認知症の第一人者が認知症になった」での放送に寄せてコラムに掲載した

 
 


小さなものらに、老人は答えたい、
私は生き直すことができない。しかし、
私らは生き直すことができる。(11月5日)

───大江健三郎・晩年様式集から。コラムに引用

 
 


ウイルスは誰もに公平に侵襲した。
しかしそのリスク配分は公平ではない。GO TOとは無縁の高齢者や病者や非正規の若者達にシワ寄せされたままになっている。
誰もが分かち合うリスクを誰かに押し付けて、この事態を乗り切れるはずがない。(11月25日)

「つながり」と一口で言うが、そもそもつながりとは所与のものとして私たちの前に転がっているわけではない。
つながりとは、つながろう、つながらなければ生きていけないという人々の懸命の思いが創り上げていく動態なのだ。(12月7日)

コロナの時代にもかかわらず、開催したイベントではない。
コロナの時代だからこそ、開催したイベントだった。(12月15日)

───今年のまちづくり大賞に寄せて

 
 


正月、家族そろっての初詣。オフクロが、「あのね、初詣のお願いは、ただひとつ、よい年になりますように。それだけをしっかりとお願いするんだよ」という。それでは賽銭の元が取れないじゃないか。
職人の夫婦だから父母とも学歴もない無学なふたりだったが、戦後、働きづめに働いて、なんとか四人の子供を育ててきた。
そのオフクロが言う。「よい年になりますように」、そのひとつだけを願え、と。
オフクロは知っていた。いや、あの頃の庶民誰もが知っていた。新年の願いはただひとつ、「よい年になりますように」。
自分一人の幸せなどあろうはずがない。見知らぬ誰かの幸せも含め、衆生誰もが幸せになりますように。津々浦々、誰ものしあわせを願え、と。
あの頃の正月は、貧しく寒かった。でもどこか暖かかった。(2019年12月13日)


 


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
いやはや、この試練は新たな年も続くでしょう。しかしその試練は何か新しい社会の姿を浮き上がらせる可能性も秘めているはずだ、そう思いたい。

どうかどうか、みなさま
良い年になりますように

|第162回 2020.12.24|

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