▲高原ではすでに秋の深まりだ。季節は誰にでも公平に訪れるが、これから長く厳しい冬の到来を思う人もいれば、集うことのぬくもりを楽しみにする人と様々である。錦秋は様々な色が混じり合って描かれる。さまざまな色。さまざまな人々。さまざまな声。
認知症の当事者発信を活発にしている人がしばしば経験することが、「あなたは認知症らしくない」と言われることだという。
「あんなに上手に話せるのに」「一人でなんでもできるのに」「困っているようには見えないのに」とか、さまざまな受け止め方をされて、そうして「認知症らしくない」と言われる。
「認知症らしくない」、言われた方の当事者は困惑する。怒りと言うより深い困惑だという。
そりゃそうだろう。認知症と診断されたことで、自分を否定されたような絶望に落とし込まれた地点から、ようやく自分で認知症であることをカムアウトし、「認知症とともに生きる」新たな人生に歩み出した当事者である。その人にとっては、再度自分を否定されたような気がするという。
この「認知症らしくない」と発せられる言葉は、実は個人の発言というよりもう少し深いところから発せられている。
言い方を変えれば、「認知症らしくない」と言うのは、その個人が発しているのではなく、その背後のこの社会の意思なのだといえないだろうか。
ここ十数年、認知症をめぐる環境は大きく動いた。
地域活動の中で「認知症とともに生きる」ということがよく言われるようになった。それはこの社会の共生や多様性への志向と重なってある部分では定着してきたようにも思える。
しかし、それはひょっとしたら福祉関係者の中だけで、そうした関係者の作成する冊子やチラシ上に踊る文言にしか存在していなかったのかもしれない。
この新型コロナウイルスによって、この社会の脆さも見せつけられた中で私たちは、同時に社会の側に根深いスティグマ、偏見といったものが今なおうずくまっていることに気付かされた。
コロナの日々は、私たちの暮らしや思いを分断したと言われるが、実はコロナが分断したわけではなく、元々分断したままのこの社会の「誤魔化し」を、コロナの事態がただ見えるようにしただけなのかもしれない。なにか、膝から崩れ落ちるような無力感に駆られることもある。
この社会には今なお、認知症に対する偏見が根付いている。認知症になると「何もわからなくなる」「何もできなくなる」と言う想いは、依然、抜きがたい。そしてそこに「認知症らしくない」という言葉を生み出す闇が潜んでいる。
厄介なのは、と、こんなふうに俗な感覚で語っていいものかどうかわからないのだが、認知症当事者の話を聴いて「認知症らしくない」という実感を持つ人の多くは、身近に認知症の人がいたり、ケアしている懸命な生活者なのである。
そうした人が素朴に感じる「認知症らしくない」という感覚には、だから、どこか自分の接する認知症の人と比べての悲哀が滲んでいる場合もあり、一概にこれを差別や偏見だと否定し葬り去ることができないところがある、と私は思う。
当事者の話に「認知症らしくない」というその人は、たとえば、当事者の話を聴きながら「あんなに話が上手なのに」「ひとりでなんでも出来るようなのに」「困っているようには見えないのに」、それで認知症だなんて、私の知っている認知症の母であったり祖父とは全く違ってちっとも「認知症らしくない」、という思いに至ると考えていいだろう。
ここにあるのは、その下地に、認知症になるということは「何もできなくなる、何もわからなくなる」という相変わらずのネガティブな認知症観があって、そこからその人の「認知症らしくない」と言った見方が形成されてしまっている。
「認知症らしくない」とするその人は、認知症だけにとらわれて、その人の「人間」を見ていない。それは認知症へのスティグマであり、よってその人は、差別や偏見の持ち主である、と。整理された思考機序ではそうなるだろう。
ただし、「認知症らしくない」とついつぶやくことをただちに差別偏見の持ち主として、その人の責に帰するだけでいいのだろうか。
この社会全体に広く根付いているネガティブな「認知症らしさ」の呪縛を解かない限り、「認知症らしくない」とする思いを「間違い」だと否定するだけでは、その人の素朴な実感は「言ってはいけないこと」として、かえって世間から潜り込んでしまう。
おそらく、「認知症らしくない」とするその人は、身近な認知症の人への愛情から、溌剌とした当事者の姿や言動に、幾重にも屈折した感情を抱いてしまうのかもしれない。あるいは、当事者の話は十分に理解はできても、そのことを認めることは、認知症を持つ大切な人への存在の否認になるという無意識の防御が、「認知症らしくない」という発想を生み出すのかもしれない。
「認知症と共に生きる社会」というのは、いうまでもなく、認知症当事者と認知症に理解を示す人だけのクラブではない。また、共生と多様性も額に掲げられた空文としてはならない。
「認知症らしくない」とする人々もまたこの社会の当事者の一員であるとするなら、そうした声にじっくりと耳を傾ければ、そこにその人の抱える、共生やケアの力も及んでいない空漠とした闇が見えてくるのかもしれない。そこを埋め、光をあて、つないでいくことが、実は当事者の声を聴いた側の責務ではないだろうか。
まぎれもなく私たちの暮らすこの社会は「認知症社会」である。その認知症社会を考える時、私たちは自分たちに都合の良い選別した声と言葉だけで作り上げようとしていないだろうか。
近著を出版した認知症当事者の丹野智文さんは、その本に多くの仲間の言葉を載せた。
丹野智文さんは認知症の多くの人々に、声を与えたのである。
聴くことは声を与えることだ。社会の底から丁寧にすくい上げるようにして多様な声を聴くことから、この社会は再起動する。
丹野智文さんは、近著で当事者にとっての希望とはとして、こう記している。
「認知症を受け入れて、未来を再構築していくこと」
これはそのまま、この社会の希望だろう。
どんな小さな声も響かせてはじめて、希望が生まれる。
|第189回 2021.10.14|