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「認知症とは」ではなく「私は」として 〜SHIGETAハウスで車座になって対話した〜

コラム町永 俊雄

▲SHIGETAハウスでの語り合い。誰かのお家におじゃまして日差しを浴びながら座談、歓談のひとときのようだった。左下が、居間以外の部屋を占拠した機材とスタッフの様子(繁田雅弘さんFBより)

SHIGETAハウスで認知症を語り合った。
参加したのは、東京慈恵会医科大学の繁田雅弘さんと慶應大学大学院教授の堀田聡子さん、今をときめく論客のおふたりである。
そして、ゲストにはかながわオレンジ大使の望月省吾さん、オンラインで参加したのはオレンジドア・もーやっこなごや代表の山田真由美さんだ。

「SHIGETAハウス」というのは、神奈川県平塚市の住宅街にある。瀟洒な和風のたたずまいでつい見逃してしまいがちだが、ここは繁田雅弘さんの生家だった。
母親が亡くなり空き家となっていたのを認知症の人や家族にとって、地域に開かれた「安心できる場所」として2018年にオープンした。
繁田さんの家族が出入りした玄関は、今、地域に、そして社会に広々と開かれている。

ここでフォーラムを開くことにした。
不思議な巡り合わせといっていい。コロナの日々でこの市民フォーラムも開催が難しくなった。オンライン開催となれば会場に聴衆はいない。それでもオンラインの開催を続けたが、当初は大ホールの壇上から誰もいない会場に向かって語るのは、まるで虚空に向かって話しかけるようで違和感を持たざるを得なかった。

会場となったSHIGETAハウスには、前日からスタッフが機材を持ち込み、大変なことになった。閑静なご近所に配慮してそっと搬入したはずだが、あるいは近隣にご迷惑となったとしたら、すべて私どもの責である。申し訳ありませんでした。
当日の朝、繁田さんがやってきて、機材とスタッフに占拠された各部屋をのぞいてびっくりした。「大変なんだなあ」。びっくりしながら、繁田さんはちょっとワクワク感を滲ませてあちこちをスマホで撮っていた。

そう、ご迷惑も顧みずに言えば、ここに満ちていたのは発信への一体感なのである。発信することは実は大変なことなのである。認知症の当事者が発信する。あるいは関わる人々が発信する。発信するということは、発信者が事態を引き受けることだ。
手前味噌で言えば、オンラインであれ放送の形態で発信するそのバッグヤードには膨大な時間と機材とスタッフが投入される。その過程で、ディレクターやエンジニア、スタッフ誰もが「認知症を伝えること」に参画していく。彼らは職能的ふるまいを超えて、認知症を伝えるものとしてそこに立ち会う。

繁田先生といえば、「途中で買ってきた」と言いながら地元の銘菓のモナカをみんなに配ってくれたりしていつの間にかSHIGETAハウスの、人が住んでいたその空気が醸し出す包摂の気配にみんなが馴染んでいる。
思えば、この市民フォーラムとしての認知症フォーラムは2007年から続いている。初めの頃は、萎縮する脳画像を見せながら、医療や介護の情報をわかりやすく伝えることを責務とし、やがて認知症の当事者を中心に据えながら考え、そして、このコロナの時代になって、認知症と共にある社会へと変容しながらもう14年になる。

今回のフォーラムで一番印象に残ったのは、この「場の力」といったことである。
これまでのフォーラム会場は規模の大きなホールがほとんどだった。そこでは、壇上に横並びになり、そこから聴衆に向かって語りかける。明快に語ることはどこか教示的になる。
壇上で横並びになるということは、視覚的もそれぞれの立場を示し、その立場を代表したことになり、医療者として、介護職として、当事者として、その場ではそれぞれの立場の代表者として発言を求められる。

が、このSHIGETAハウスでは違った。
どこが違ったのか。ハテ、それが言うに難しい。

例えば、こんな発言が出た。
繁田雅弘さんは、認知症の人と共にいる医療者として発信を続けている。では、今語られている認知症と共に生きる共生モデルでは、どうしても発信する当事者のイメージが先行し、一方で進行し言葉や表情が失われたように見える高齢者認知症の人々の存在はとかく「人間の尊厳」といった理念的な概念に取り残されてしまう、どう考えればいいのだろう、そんなふうに繁田さんに問いかけた。

繁田さんは、少し黙ってそれからこんなふうに語り始めた。
「その人がわからなくなっているとするのは、こちらの受け止めにすぎない。医療者である私のできることは限られているが、まずはわかっていることを前提に働きかけ、語りかけるだろう。何かが変わることはないかもしれない。こちらがボロボロになって、ムダになってしまうかもしれない。しかし私は、ボロボロになったとしても、ムダであっても続けていく」

繁田さんの、そのノンバーバルな含意までも文字に転記することは難しいが、繁田さんが何度も繰り返した「ボロボロになっても」という言葉自体がこれまでの医療での葛藤や挫折を踏まえているようで、語るうちに、繁田さん自身が胸迫り言葉に詰まるほど、想いを込めたのだ。
あるいは「ムダになっても」ということに、成果主義にとらわれず、治すことができない認知症の医療を、認知症の人や家族を「支える医療」へ転換する決意が込められていたようでもあった。

そのように「認知症」を語る。いや、自分を語ることで「認知症」に触れたのだ。
堀田聡子さんが代表となっている認知症未来共創ハブとは文字通り社会全体で共に創る活動体だ。まず最初に認知症本人の声を聴き取ることから始め、それを学術研究の側面で受け止め、次に企業などのバリアフリーのシステムや商品開発につなげ、そうした動きを政策提言までつなげていく壮大でユニークな構想だ。実際すでにさまざま分野の人々が参加している。

が、その未来共創ハブを語るのに、堀田聡子さんはまず、こんなふうに語り始めた。
「未来共創ハブは、「認知症とともによりよく生きる未来」と、共生を掲げていますが、その私自身がマンション住まいで、実は上下階や両隣の人とはほとんど交流がないのです。「共生を語る資格はあるのか」、そうした私自身の限界から、まずは本人の語りのプラットフォームとして、認知症の人100人インタビューを立ち上げました」

本人インタビュー、つまり、ここでの本人の声を聴くということは、自分の認知症への思い込みを手放すことであるとされる。堀田さんは、この活動を出来上がった客体として語るのではなく、自分自身の問題意識の問い直しから歩み出している。
堀田さんも繁田さんも、その世界では実績ある存在なのだが、このフォーラムでは私も含めて、さて私はどう思うだろう、といつも自分に立ち返りながら語り合った。

あえて言えば、認知症を語るのではないフォーラムだった。いや、テーマが認知症なのだし、確かに誰もが認知症を語っているのだが、認知症を語ることはコロナの社会を語ることになり、さらにはそれぞれがそれぞれのパーソナルな自分の思いを吐露しながら、語りあいが円環し、積み重なって行ったのである。
認知症から語るのではなく、自分の思いから語り、そして自分を問い直し、そこから認知症に立ち戻る。「さて、自分はどうなのだろう」と。

このフォーラムはありがたいことに好評をいただいたので、どこかの時点で放送される。喚起力を備えた各地の取材映像など取り組みの実際はそちらを見ていただくのが妥当だ。ぜひご覧いただきたい。放送予定などはいずれお知らせしたい。

SHIGETAハウスでは、車座に丸く座って水平につながり、それぞれの立場も溶け合い、まなざしを交わし、誰もが「認知症とは」ではなく「私はね」と語り始めて、ああ、ここに地域の姿がある。そうか、これが共生への扉なのか、そんな気づきが行き交った「対話」なのであった。
それが、家族や地域の人の暮らしの息遣いをのこすSHIGETAハウスの場の力だった。
それはそのまま、全国各地の地域社会、共同体の潜在の力なのだろうと思う。

ギリシャ神話では、パンドラの箱が開けられると、悲しみや憎しみ、ありとあらゆる災厄が飛び出した。パンドラの箱が閉じられた時その箱の中には、希望が残されていたと伝わる。

|第195回 2021.12.14|

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