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「笑顔で生きる」と涙 〜映画「オレンジ・ランプ」を観る〜

コラム町永 俊雄

▲映画「オレンジ・ランプ」は、認知症をテーマにしてはいるが、そこにあるのは、コロナの日々を経験し傷ついた地域社会の再生への道筋であり、なにより「人間回復」の物語である。

丹野智文さんをモデルとした映画「オレンジ・ランプ」の初号試写会に参加した。
初号試写とは、編集が終わったネガから焼き付けられた最初のプリントを見ることで、スタッフや関係者の試写会である。出来立てほやほやの映像だから、誰もが緊張の面持ちだ。

丹野智文さんは、「あー、緊張する」と何度も言いながら私の隣に座った。
小ぶりな試写会場が暗くなって映画が始まる。登場するのは、只野晃一と真央の夫婦に二人の娘の4人家族。晃一は自動車販売のトップ営業マンと実際の丹野さんの設定そのままだ。
スクリーンには、主人公の晃一が若年性アルツハイマーと診断されてからの葛藤の日々が描かれていく。隣で早くもグシュグシュと鼻をすすりあげるらしい丹野さんの様子が窺え、それから上映中ずっと丹野さんはハンカチで目頭を何度もぬぐい、嗚咽を漏らしていた。

試写が終わって明るくなると、参加した関係者が丹野さんを取り囲む。丹野さんは、しきりにハンカチで目を拭いながら、「全部、この通りだった」と絞り出すように繰り返すと、誰ともなく深々と頭を下げ号泣し、監督やプロデューサーや主演の貫地谷しほりさんや和田正人さんたち(中尾ミエさんもいた)からのあたたかな拍手に包まれたのだった。

映画「オレンジ・ランプ」は、丹野智文さんとその家族の実話をもとにし、丹野さん自身が「この通りだった」というように、丹野さんが経験した実際のエピソードを丹念に取り込んで進行する。
言ってみれば、この映画は現在の私たちが知る丹野智文誕生までの物語だ。丹野智文さんは、これまでの認知症の「常識」を次々と覆してきた認知症当事者である。
そして、知られているように、彼の現在のモットーは、「笑顔で生きる」である。
認知症と診断された人のほとんどは、不安と絶望の中に落ち込む。診断を「人生の終わり」の宣告と受け止める。それを丹野智文さんは身をもって「笑顔」というポシティブなメッセージを発し続ける事で、覆したのだった。
彼は、「認知症でもできることがある。やりたいことを見つけることができる」と、全国各地で認知症と診断された仲間にあって語り合いの場を持ち、笑顔で生きる自分自身を語ってきたのである。それが現在の「認知症とともに生きる」実践であり、彼自身がそのロールモデルとなっている。

映画「オレンジ・ランプ」は、その丹野智文がいかにして「笑顔に生きる」境地に到達するかの、その間の悲嘆と絶望と、最愛の妻との葛藤の日々を描いている。
しかし実は、丹野智文さん自身は、これまでこうした自分の嘆きと不安の日々を表立っては語っていない。それはなぜか。
それは彼自身が立ち向かったのは、「認知症になったら何もできない。わからなくなる」という世間の「常識」であり、同時にそれは自分自身の中にもあった「認知症は人生の終わり」というセルフ・スティグマだった。実際、彼自身も診断を受けてから一年有余を泣き暮らしている。

丹野智文さんが長い絶望と不安のトンネルから光の世界に抜け出せたのは、医療や福祉施策の支援ではなかった。ひとりの認知症のある人の笑顔だった。ああ、こんなふうに生きていける。
そこから彼は涙を振り払い、自身の認知症を引き受け、新たな自分の人生を切り拓いてこんにちに至っている。

だからあえて、自分のつらく困難な時期にはほとんど触れない。
「笑顔で生きる」とする自分が認知症のつらさや絶望を語れば、聴いた人が「ああ、やっぱり」「認知症になればあんなに大変なのだ」と、ネガティブな認知症を固定させてしまう。そうではなく、認知症と診断されて嘆き泣き暮らす時間を飛び越えて、ともに笑顔で生きる仲間となろう、そのようにひたすらポジティブな自分を語り続けてきた。

反面、心ない言葉もささやかれた。「丹野さんは特別で、認知症らしくない」「彼は認知症ではない」
これらは、この世間に根強くうずくまるネガティブな認知症観に基づいた発想だ。そもそも「特別で認知症らしくない」とする人々のイメージする認知症らしさとはなんだろう。それはやはり、何もわからなくなる、できなくなるという古い認知症観のままなのだ。

この映画「オレンジ・ランプ」は、丹野智文さんの「笑顔で生きる」が、いかに圧倒的な悲嘆と混乱から生み出されたのかを描き出す。
この映画は涙でじっとりと重い。
膝から崩れ落ちる自分の無力を泣き、大切な人への申し訳なさに声なく泣き、悲しみと苦しみと怒りに歯を食いしばり顔を覆って泣いた。
だが、その涙がある日突然、新しい力となる。そのような映画である。

この作品が浮き彫りにするのは、「笑顔」の裏に封印されてきた涙だ。上映後、号泣せざるを得なかった丹野智文がいかにして「認知症とともに生きる」という新しい人生に再生させたかの道筋である。
しかし、その道筋は、ひとりでは歩み出すことができなかった。もうひとりの主人公、真央の思いをたどることで、映画は丹野智文物語に閉じるのではなく、私たちのこの社会を開き、変えていく。

晃一の妻、真央は聡明なやさしさに満ちている。しかし、そのやさしさが晃一を追い詰める。そのことを晃一は言えないことで、さらに自分のつらさが内向する。晃一がそのことを言葉にするとき、この夫婦の「認知症」が大きく展開する。
この映画は、「やさしさ」とは何か、私たちが当たり前に受け入れている価値観や、そこに潜む暴力性までも私たちに気づかせる。

そのことを託されているのが、ランプ型懐中電灯の「オレンジ・ランプ」だ。
真央が手にするランプは、彼女の不安の象徴である。が、物語の後半で、晃一が手にして真央に向き合う時、それは全く違う灯火となる。彼が照らし出すのは、「ともに生きる」ことの本質である。本当の「やさしさ」である。
このランプは、認知症を見るのではなく、人間を見る普遍のまなざしの灯りとなって晃一と真央のふたりを照らし出す。
ふたりの再生は、認知症からの回復ではなく、ありのままの「人間」を取り戻す「人間回復」の物語だ。そしてそこから、ふたりは地域社会の仲間や同僚や企業や自治体とともに、次々と晴れやかに新しい扉を開いていく。私たち共同体の誰もが「笑顔で生きる」ことの扉が開かれる。

映画「オレンジ・ランプ」は確かに丹野智文さんがモデルとなっている。
しかし、これを丹野智文個人の称賛と感動の物語と観てしまっては、おそらく丹野さんも本意ではないだろう。
ここでいささかの場違いであるが、WBCで、名だたるスター選手揃いのアメリカチームとの決勝戦を前にした大谷翔平のロッカールームでの檄を思い起こそう。
「ここはひとつ、憧れるのを忘れよう。憧れていては勝てはしない」

別に勝つ必要はないのだが、ここで丹野智文の素晴らしい映画として感動するだけでは、自分から離れた別の世界の話になってしまう。
只野晃一はあなたなのだ。真央もまたあなたなのだ。ふたりが歩み出す地域社会は、あなたのまちだ。
これはあなたの物語なのだ。そのような映画である。

映画『オレンジ・ランプ』公式サイトはこちら

|第242回 2023.4.3|