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ひとりで過ごすクリスマス 〜孤独を求めて、つながりを生む〜

コラム町永 俊雄

▲ヨコハマの深夜。大都市が眠りにつくとき、人々の孤独が起き上がる。共生とは、そうした人々の想いを包摂することでもある。クリスマスは孤独と夜に出会う。

クリスマスシーズンである。
街中がイルミネーションに輝き、クリスマスミュージックが鳴り響き、ビング・クロスビーと山下達郎が張り合っている。

至る所に神宿るこの国の汎神的社会は元々宗教に寛容だから、いまやクリスマスは家に神棚があろうが仏壇でご先祖様がいかめしく睨んでいようが、ジングルベルの一振りでクリスマスなのである。

海外ではポリティカル・コレクトネスとして、メリークリスマスではなく、ハッピーホリディなのだという声も聞くが、私は実はこの国のクリスマスのどこか軽薄な気分が結構好きなのである。

歳末というのは、企業組織での忘年会や、どこかムラ社会的な伝統の正月などの歳時記がひしめくが、クリスマスだけがそんな縛りから解き放たれている。
それぞれの「個」の暮らしのイベントなのである。小さな子どもの喜ぶ顔に若い夫婦のおぼつかない歩み出しが祝福され、キャンドルを挟んだ恋人同士のやわらかな未来へのほほえましい相互確認だったりする。

それぞれの個の存在としての家族や恋人のおずおずとした想いが行き交うのが、イルミネーションに照らし出されるクリスマスなのだ。それはまことに率直ではれやかな「幸せになろうね」というメッセージの交換で、そのような気分はクリスマスだから許されている。

私たちのこれまでの社会体質としては、自己表現は控えめで抑制的であることが求められ、よく言えば察し合う関係性、悪く言えば腹のさぐり合いの仲間同士の結束である。そのことで私たちの周りの地域社会は成り立ってきたところがある。

クリスマスには、そうした関係性の湿り気がない。からりとした自分達だけの「大切な人と過ごす日」のイメージが、街の光とデコレーションと共に受け入れられている。クリスマスは期間限定の解放された気分の祝祭なのである。

でもね、このクリスマスがどうも苦手という人も実は少なくない。
苦手レベルならなんとかなるだろうが、クリスマス・ブルーと言われる鬱を感じる人も多い。世間の楽しさや賑やかさの大盤振る舞いは、そこから取り残されてしまう人々にとってはなんともつらい。まるで人生の敗残者のように思える。自分は社会から排除されている、そんな自分を感じてしまう。厳しい現実として、クリスマスや正月に自死する人が多くなるとも言われている。

だが私は、こうしたクリスマスに自己否定に陥ってしまう人と、クリスマスには賑やかに楽しもうとする人々とが、別々の存在だとは思えない。互いにこの社会の中に疎外感を抱いている点では、私たち誰もが地続きの関係にいる。

現代は、人々の帰属意識が希薄になったとよく指摘される。
社会福祉を担う人々からは、かつての共同体のつながりが解体され、ただ彷徨う人々で満ちた社会では福祉的なニーズは複雑多様化し把握できないと嘆く声が上がる。

しかし、その帰属意識を捨てることが求められていたのが、この社会ではなかったか。
かつて地方から都市への大規模な人口移動を労働力に充て、企業への忠誠という帰属意識を植え付けられ、そこで働く人々は長時間通勤と長時間労働に適正化された暮らしのために、ニューファミリーともてはやされた核家族を選び、駅至便のマンション住まいで、鍵をガチャリとすれば地域社会のわずらわしさを遮断できた。
ふるさとを捨て、地域から目を背け、家族をあきらめ、ちちははから離れ、気がつけば経済のグローバル化で企業はそのセーフティネットをはずし、見渡せば、帰るべきところはどこにもない中に私たちは放り出されている。

帰るべきところがないまま、むき出しの個である私たちはどこに行けばいいのか。
本来の、主体をもって確立された「個」が連結した新たな地域社会を作ることもなく、企業や福祉施策の中に自身を埋没させてここまできてしまった。

だから、地域共生と言われても何をすればいいのかわからない。地域のどこにも結節点を持たないまま、その潜在意識の怯えが、クリスマスの「大切な人との夕べ」の甘い誘いに逃げ込んでいるだけなのだ。その怯えは、自分もまたクリスマスの賑わいから取り残される敗残者になるかもしれないという怯えでもある。

シニカルに冷めた目で見れば、クリスマスの街の賑わいは、共同体を失い帰るべきところのない群衆が、自身のよるべなさをいっとき忘れるための狂騒と映る。
社会が不安の中に沈み込む時、ふと、幕末の熱狂の「ええじゃないか」を思い起こさせたりする。

今、そうした帰属意識が希薄とされる人々に向かって懸命に「つながりましょう」「支え合いましょう」と連呼している。確かにこの国の宿命である少子超高齢社会を思えば、つながりあい支え合うとする地域共生社会の構築にしか未来はない。

だとしても、ジングルベルの騒音のようにやたら「つながりましょう」と呼びかけても、誰も反応はしない。帰属意識が希薄であるということは、反転すれば誰もが縛りのない自由を謳歌しているのかもしれない。
彷徨う人々の中にあって、あるいは覚醒しているのは、クリスマスから取り残されたと感じている人々かもしれない。彼ら彼女たちは、自分自身の心の深い存在不安と否応なく向き合っている。

一人ひとりが違う「個」の存在から立ち上げることだ。共生社会とは、それぞれの「個」としての自分の足もとを踏み固めるようにし、そこからつながり合いを編み上げていくしかない。
個の主体的な帰属意識を育てることが、共生社会なのだ。

青春と言われる時期は、「ひとりでいたい」と孤独を求めることが多い。たぶん、それは人格形成には必須の過程なのだろう。際限なく街を彷徨ったり、見知らぬ土地の小さな駅に降り立ったり、自分の部屋に閉じこもって音楽や本だけを友として過ごしたりする、そんな経験を誰もがもってはいないだろうか。

では、「つながりましょう」とする共生社会にとって、「私はひとりでいたい」と孤独を求める気持ちは、世の共生社会をぶち壊す、あってはならない心情なのだろうか。
私はそうは思わない。むしろ、共生社会には是非とも必要な「個」を形作る心情ではないかと思っている。
ちなみに、孤独と孤立は違う。孤独とは自己選択の心にあり、その背後にはつながり合う社会が備わっている。対して、孤立とはその背後に荒涼とした分断の自己責任がうずくまっている。

「ひとりでいたい」という孤独を選ぶことができる社会とは、そこにひとつのメッセージを発している。
それは、「あなたはあなたのままでいい。あなたはそこにいていい」とする包摂の社会である。本来の共生社会は、「ひとりの時間」を尊重する多様な「個」を前提とすることから生み出されるはずなのだ。

そもそもで言えば、クリスマスの起源とは古来の冬至祭であると言われている。一年のうちで最も昼が短い日、つまり最も太陽が弱まる日に、太陽の復活を願う冬至の祭りからクリスマスにつながったとされる。
夜の闇におののく人々の光と希望の太陽を願っての祭から、はるかな時空を超えてクリスマスとなった。夜の闇が自己を鍛え、太陽を招き寄せるようにして春へと季節を動かす。社会を動かす。

私は小さな仕事場を横浜に構えているが、しばしば、夜中に目覚めてそのまま寝付けなくなることがある。そんな時、暖かなベッドから身を引き剥がし窓から港の方角を眺めることがある。

普段、港の夜景は高層ビルの灯りで沸き立つように輝いている。が、深夜3時の港は、夜の底に沈んでいる。高層ビル群の航空障害灯だけが赤く息づくようにして明滅している。
その、夜の星々のような航空障害灯は、寝静まった都市の孤独と人々の孤独に向かって、静かな励ましを発信しているようだ。

あなたはあなたのままでいい。あなたはここにいていい。

やがて、東の空のベイブリッジの向こうから新しい朝の陽が昇るまで、ビル群に灯された小さな航空灯は人知れず励まし続けている。

|第267回 2023.12.20|

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