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生きてます 街は壊滅状態です 〜能登半島地震:被災地の医師が見た「現場」〜

コラム町永 俊雄

▲炎上する輪島の街。1月2日午前2時。(撮影 小浦友行さん)

年も押し詰まった大晦日の夜、石川県輪島市のあるクリニックで賑やかな年越しの宴が開かれていた。地域の新しい支援につながる医療を創ろう、そのスタッフ、仲間たちが集まった。とびきりのお酒と笑顔で溢れ、希望を語り合ったその時間は…新しい年の始まりの日、突然断ち切られた。
元旦の午後4時10分、能登半島地震発生。

    生きてます。街は壊滅状態です。

令和6年1月1日、午後5時24分の第一報。
能登半島の先端部、奥能登にあって訪問診療に取り組んでいるごちゃまるクリニックの小浦友行医師が、仲間のSNSに投げ込んだ衝撃の一行だ。その一行が、誰もの正月を凍りつかせた。

深夜2時。1月2日になったばかりの時刻。
夜天に凄まじい火炎を上げて燃えさかる街の写真が載った。小浦医師の現場からの続報だ。
「つらいのですが、現状を知ってもらうために写真を添付します」とある。自分の故郷が燃えている。

「余震が続き、闇に包まれて被害状況の把握が困難。陸路が寸断、支援は全く入れず。避難所に水は通らず、電気は通っているところとそうでないところがあり、見渡すばかり倒壊家屋ばかり」と、その中にあっても現状をなんとか伝えようと今必要な情報を重ね、そして、「私の故郷、朝市通りは目下炎上中、鎮火のメドたたず。おそらく我が家も燃えているものと思われます」

「自らの命を守る行動が今も続いています。
今のところ冷静さは保てております」

おそらく、自分の命を守りながら一睡もできない極限の中、必死に冷静さをかき集めるようにして、ここから小浦さんは地域医療の医師として猛然と動き始める。
ただちに避難所で可能な限りの傷病者の対応にあたる。擦過傷、裂傷、火傷、打撲、救助者にクラッシュ症候群の人がいないかの評価に当たっていると報告にある。今後は低体温症、脱水の懸念があることも指摘。自身が被災者でありながら、発災から半日も経っていない時点での被災地の只中からの報告が続く。これはおそらく、もっとも早くそしてもっとも的確な現状の把握と発信であっただろう。

小浦友行さんが院長の「ごちゃまるクリニック」は、高齢化と人口減少が急速に進む能登半島でも奥能登と言われる地域に2021年5月に開かれた。「ごちゃまぜ」で「まるごと」の医療だから「ごちゃまる」で、地域に住む人々の元気や幸せをつなぐ新しい形の地域支援型診療所を目指している。
実は以前、小浦さんにはこれまでに二度、私も関わる医療フォーラムに参加してもらっている。過疎と呼ばれる地域での在宅医療に取り組む小浦さんは、その医療をその本人とのナラティブな交流から組み立てる。在宅のお年寄りの人生の最終節で、いのちと向き合うことも多い。小浦さんは地域のお年寄りのことを語るとき、しばしば、自身の想いの高まりに言葉を詰まらせる。そのような医師である。

地震発生の翌2日の小浦さんの報告に戻る。小浦さんの気がかりは、在宅患者と連絡が取れないことだ。なんとか徒歩圏内の在宅患者の安否確認しかできないと記す。夜間に瓦礫を越え、寸断した道路を辿る。それだけでも大変な負荷だろう。
夜が明けるとともに、クリニックのスタッフと合流。在宅患者の安否確認を続ける。
まだこの段階では医療者や地元の専門職がそれぞれバラバラに現場を回っているが、小浦さんは能登北部医師会と連絡をとって連携した活動にしようとするが、連絡がつかない。通信の障害は、活動の大きな障壁だ。

1月4日になると道路の一部が開通。物資や支援が一気に増加する。が、その支援がなかなか生かされない。小浦さんはそれを「受援力」の不足にあるという。せっかくの物資を配分する人手がない。支援する人のための交通路や宿泊所がない。支援を受け入れる被災環境に余力がないというのだ。被災地の厳しい現実である。

この日、道路の開通もあってようやくDMAT(災害派遣医療チーム)が到着。
これを機に、避難所になっていた輪島市ふれあいセンターでの仮設診療所が立ち上がる。が、医療状況がほんの少しでも改善すると、さらに深刻な課題が次々と顕在化してくる。SNSの報告での緊迫度が増す。
「緊急搬送2件。HOT(在宅酸素療法)患者の酸素切れ。脱水・基礎疾患憎悪憎悪」の記述がある。基礎疾患憎悪憎悪と、憎悪の文字が重なるのはタイプミスではあるまい。抑えきれない小浦医師の感情が溢れ出る。

このころから、小浦さんは現状の報告だけではなく、被災地からの緊急提言を重ねている。たとえば、「避難所を中心とした支援と医療と福祉介護の包括的対策の進行が急務」とし、この日、みずから「輪島市保健医療調整本部」に能登北部医師会の代表として異動する。これはDMATなどの医療支援と住民の間に入り調整役を務めようというものだ。いのちと暮らしの声の全てが小浦さんにのしかかる。

そんな中、小浦さんの人間を見るまなざしが、こんな報告になっている。
「避難所生活の中で最も印象に残ったこと。避難者同士の互助がとても力強い。支援物資を運ぶ高校生、避難所の掃除をするお母さん、力仕事をするお父さん、見知らぬ人のおむつかえや見守りをするおじさま、おばさま。移動が大変な高齢者をおんぶするお兄さん…
この3日間、住民同士の支え合いでしか乗り越えることはできなかった。みんなに、お互いに感謝、みんながヒーローです」

支援も入らない混乱の急性期を、避難した住民同士、高校生も若者も、お年寄りも誰もが助け合い支え合ったのである。地域に住む人々の元気と幸せをつなぐ新しい地域医療を目指すとする小浦さんにとっては、胸せまる風景だったはずだ。
この日の投稿の最後にはこうも記している。
「今日は本当にたくさん泣いた」

発災から6日、連日の心と身体のストレスはどれほどのものなのだろう。
1月6日、震度5の余震が起き、冷たい雨が降った。
小浦さんの報告はまさに「孤軍奮闘診療中」と記すような日が続く。その中で自分でも知らないほどに自分を追い詰めていく。

「アドレナリンが尽きている感覚があります。
 今日はポッキリ心が折れたり立ち直ったりの繰り返しの日。眠ってはいるが休めていない」

朗報もあった。1月7日に小浦友行さんの配偶者、小浦詩さんが正月での帰省先からやっと戻ることができた。小児科医の小浦詩さんは、友行さんとともにごちゃまるクリニックを立ち上げ、子供や乳幼児、妊婦を主に診療してきた。

「うた先生輪島に帰ってきた〜。最高の伴侶であり、相棒であり、何よりこの地域にとって欠かせない方です! みな大喜びです!」

発災以来初めての、弾けるような喜びの報告である。つらさの重さに押しつぶされる日々だからこそ、この喜びはなによりも嬉しい。誰もが本当に久しぶりに心からの笑顔になった。アップされたスタッフの笑顔の写真が眩しく心に染みる。

うた先生が帰ってきたことで、損壊が激しかったごちゃまるクリニックもなんとか片付け、電話での再診処方を始める目処がついた。

▲7日になって仲間が揃ったことでの本当に久しぶりの笑顔。発災直後から被災地支援に入ったクリニックの仲間たち。右から小浦友行医師、小浦詩医師。(写真はごちゃまるクリニック提供)

が、被災地の日々は起伏激しく進行する。
1月8日、道路が通り移動できることになって、二次避難が本格的に始まる。この日、能登には雪が降り、あたり一面が雪景色になる。避難所は寒く、上下水道の復旧もままならない。小浦さんも二次避難をこの頃から何度も言葉を尽くして呼び掛けている。

「どんな場所であれ、今より暖かく、雪が少なく、水があり、入浴ができる場所のはずです。今は辛抱の時です。命を守る行動は今も続いています。雪が溶け、暖かくなったら奥能登に戻ってきましょう」

「雪が溶け、暖かくなったら奥能登に戻ってきましょう」
ここに小浦さんの吐くような思いが込められている。やるせない想いが溢れている。きっときっと帰っておいで。そのことを約束したい。したいのだが、しかし、それは果たして…

実は二次避難は、小浦さんにとっての大きなジレンマである。
二次避難は災害関連死を防ぐためには重要で必要なことだ。被災地の医師としての小浦さんは二次避難を推奨する立場にいる。しかし、新たな地域医療を創ろうとするごちゃまるクリニック院長としては、住み慣れた自分の地域から引き離すことは、その人にとって「元気と幸せ」につながることなのだろうかという思いがぬぐいきれない。そう思いながらもすぐに、今は救命が第一と打ち消し、そうして二次避難を呼びかけ、「暖かくなったら戻ってきましょう」と付け加える。心の内の深いところが激しく揺れる。

1月11日、病院に救急搬送された在宅患者さんが息を引き取ったという報が入る。
自宅で地震に遭い、家屋が倒壊寸前で避難所へ移動。徐々に容態悪化。ヘリ搬送で入院。そこで息を引き取ったという。

「あばら屋だけど、家がいいです。先生、もう十分生きた。覚悟できとります」
以前、訪問診療の折、そう語っていたという。「やりきれない想いが重くたれ込みます」 小浦さんはそう記す。
実はその他にも、小浦さんが訪問診療してきた在宅患者の何人もが、避難所暮らしで容態が悪化し、病院に緊急搬送されている。

住み慣れた自宅での暮らしを幸せにつなぐとしてきた小浦さんは、自分に言いきかすようにこう記している。
「二次避難が進んでいる。繰り返すが、厳しい冬に突入するこれからの奥能登で、避難所や自宅で過ごすことは要介護者にとって危険ともいえる行為。理屈としてはその通り、災害救命の理論、人道的には全く正しい。なので私も医師としてそれを薦めたい」としながら、しかし、しかし、と小浦さんは心中に繰り返すしかない。

1月15日、小浦友行医師と小浦詩医師夫婦は、ともにインフルエンザに罹患したと報告を入れた。避難所での感染症は蔓延している。夫婦ともに心も身体も免疫も限界だったのだろう。休んでほしい。しかし、その中でも小浦医師は、二次避難のミッションを責務としつつ、絞り出すようにこんな文章を載せている。「一度だけぼやかせて欲しい」と。

「虚しい、辛い、はがやしい。私はいち医療職というだけでなく、愛するごちゃまるチームを守る立場でもある。一度だけこの場でぼやかせて欲しい。私の価値観は、奥能登を愛し続けること、のはず、だ。でも、愛し続ける自信が、もろもろと崩れようとしてしまう…
発災2週間。雪に覆われる被災地にて」

ここにあるのは、地震発生直後から瓦礫を踏みしめ、避難所の空気の中に身を置き、被災者の目線でひたすら人々と向き合い、人の想いといのちと暮らしをつなげようとした医療の記録である。連日、自身のFacebookに発信する情報は、簡潔な表現ながら多様で、驚くほど的確な指摘や提言を含んでいる。現場からの現在進行中の報告としては稀有な記録と言っていい。

そして私が注目するのは、その客観の報告からこぼれ落ちる小浦友行さんの想いである。
切なくやるせない想い、郷土、奥能登を愛する気持ち。小浦さんはほとんど弱音吐かず、私情を後回しにして報告を重ねているだけに、かえって彼の想いがどうしようもなくこちらに染みてくる。そしてその想いこそが、被災地の実状なのだ。
私たちはここからどのような自分なりの支援を組み立てるのか、私たちの能登半島地震支援はここからだ。

1月20日時点で、小浦さんはインフルエンザから復帰した。ごちゃまるクリニックもようやく外来診療とモバイルカー(移動診療車)を利用した訪問診療を始める。
顔を前に向け、被災者の暮らしを前に、と。

     (1月21日深更、小浦友行医師のFacebookをたどりながら)

▲これは、ごちゃまるを応援する仲間の穴水出身の同級生が作ってくれた応援デザインだということだ。「能登は、ひとりじゃない」

|第270回 2024.1.22|

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