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共生社会の幻想と希望 その3 信州の地域福祉のあゆみ「実践者・開拓者であれ!」

コラム町永 俊雄

▲1950年代から現代に至るまで70年に渡る地域の記録。語りには、地域で真剣に討議する様子や伸びやかな笑顔の人々など多くの写真が添えられ、地域の記憶がそのまま記録となっている。

共生社会のつくり方、といったハウツーがあるはずもないのだが、あえてつくり方と言うなら、それはひたすら個別の小さな実践をかさねていくことである。既成の法則原理によるのではなく、自分たちで生み出した実践をかさねていくことが共生社会という風景を生み出す。

長野県社会福祉協議会の「信州の地域福祉研究会」が、令和5年の春に分厚い報告の冊子(冊子とするには立派すぎる体裁だ)を出した。
タイトルが「実践者・開拓者であれ!」である。とかく世間にはシニカルに語ることで自身をカッコつけようとする言辞が氾濫しているが、これは気恥ずかしいほどに真っ直ぐな「志」に溢れている。

「実践者・開拓者であれ!」信州の地域福祉のあゆみ、と題されたこの冊子にはいくつもの特長がある。そのひとつには、地域福祉の実践のリアルをどう伝えるかというところから始まっている。異色であるのは、4部構成になったどの報告もその実践者と開拓者の「物語」になっていることである。

第1部の「地域福祉の開拓者」から始まるそれぞれの報告は「narrative 01」から第4部の「narrative 19」に至るまでどの報告も、各地の地域福祉の開拓者、推進者、実践者とされた地域に暮らす個人の「語り」で構成されている。
すべては「私」から始まる実践記録なのである。その語り手は、その報告のはじめに顔写真とプロフィールが紹介されている。

こうした「私」という語り手による地域福祉の報告は、私の知る限りあまりない。それは福祉というのは客観性を備えなければならないという行政体質から来ている。しかし、この信州という地域の福祉は、そこに暮らす人々のつらさや困難、そして希望の中から立ち上がるものとしている。だから、どれもが人の物語としている。これは類書にないいちばんの特色だ。

例えば、1部の最初の物語は、まだ地域福祉がその姿も見せない草創期に地域に歩みだした小林和子さんが語っている。小林和子さんは、自身が幼少期にポリオにかかり左足に麻痺が残ったこともあって、高校生の時から障がいのある人の支援活動に関わった。
そうした活動が目に止まり、上田市社協の事務局長から声がかかって小林さんは高校を卒業すると上田市社協に入職。1960年、昭和35年のことだった。

ここにあるのは、地域福祉の草創期には、福祉とは出会いや関わりといった自身の人生の物語の力によって編み出されたことが読み取れる。今風に言えば、人間同士の関係性、ソーシャル・キャピタルの草分けであった。
小林さんは若々しい情熱で、故郷の地域を歩き回り、人々と出会い、新たな取り組みを次々に手掛けていく。まさに開拓者の名にふさわしい。

小林和子さんの忘れられない記憶として、このようなエピソードが語られている。
戦後の混乱期を経て経済成長を駆け上がろうとしていた当時は、障がいを持っている人に目を向けない時代だったと小林さんは語る。
ある集落を訪問したときのこと、手足も萎縮し発語も困難な最重度の脳性麻痺の子供が、ひとりでヤギの小屋の布団に寝かされ閉じ込められていた。その母親も姑から閉じ込めるよう命じられ、あがらうことは出来なかったという。
小林和子さんは、その母と手を取り合って泣き崩れた。ただ悔しく悲しい。
悲惨な現実と言って済ませることが出来ない時代を、あふれる涙と汗を拭いながら切り拓く開拓者がいたのである。
この冊子は、そうした地域福祉草創期のスピリットを引き継ぐとして、この物語を冒頭の第1部に載せている。

この報告冊子の全体は、戦後間もなくの1950年代から、高齢化社会への突入を経ての地域づくり、在宅福祉から地域包括ケア、そして地域共生社会の現代に至るまでの信州の地域福祉のあゆみを地域の虫の目で丹念に描いている。そしてそれらを読み込むことでやがて時代を俯瞰する鳥の目につながるような大きな物語へと合流していく。小さな幾筋もの流れが大河に合流していくさまを目撃するようだ。

この冊子は如何にしてできたのか。
それは地域福祉に関わる8人の思いから始まった。それまでの長野社協の地域福祉の長い歴史を埋没させるのではなく、次の世代への継承を目指そうと、2020年2月に長野社協の元・現職員8人が集い「信州の地域福祉研究会」というまことにささやかながら熱い研究会を発足させた。が、2月に発足してすぐの4月に、コロナの緊急事態宣言が発出、研究会の活動は中止になった。

ここからが、信州人の粘りだろう。発足一年を経た21年の2月のオンラインの打ち合わせではコロナの事態で活動を停止してしまったことの反省をまずもって確認したと記録にはある。おそらくは率直な自己検証の語り合いがあったに違いない。
コロナの事態の困難が、逆にメンバーの情熱に火をつけたところがある。その後あらたに参加するものや、参加の呼びかけをしたりし、オンラインでの活動が続いていく。この研究会もまた、地域の福祉の記録と研究の語り手たち集団であったのだ。
そのようにして「信州の地域福祉研究会」の自律と活力がこの冊子を生み出した。研究会には、地域の開拓者、実践者と同質の志が満ちていたのだろう。

実は今年の1月、能登半島地震の発生を受け、全社協で各地の社協と災害支援の報告会があった。その時私が鮮烈に記憶しているのが、長野社協からの被災地支援の取り組み報告だった。その時、長野社協では福祉チームを独自派遣し様々な支援活動に、被災地での「意思決定支援」に取り組んでいると報告したのだ。

能登半島地震の被災地では、過疎地、超高齢地域、そして上下水道の断絶や迫りくる寒さの中で命を救うためとして、広域搬送、二次避難が盛んに言われていた。だが現地で、とりわけ高齢被災者の支援に取り組む人にとっては、住み慣れた地域から引き剥がすようにして、それで本当に支援となるのか、深いジレンマを抱えざるを得なかった。
そうした中で、長野社協では、被災者の意思決定支援の重要性に取り組んだのである。
能登の高齢者は被災者である一方でまた、地域で育んできた自分の人生の主人公である。どこでだれとどう暮らしたいのか、その意思決定を支援の柱のひとつとしたのだ。
もともと長野は権利擁護のモデル地域にもなってはいるが、被災地でのその発想には、この冊子に連綿と描かれてきた暮らしの物語を途絶えさせないという思いや、地域福祉を創ってきたとする長野社協の自負が担わせた支援の形なのかもしれない。

そして、もうひとり、キーパーソンがいた。市川一宏ルーテル学院大学名誉教授である。
市川さんは実は、全社協地域福祉部の運営委員長で、私も会議のたびに末席でご教示を仰いでいる。歯に衣着せぬ闊達な物言いでいつも議事を進行していると思ったら、この信州の地域福祉ムーブメントには30年近く関わりつづけ動かしてきた方なのである。

市川一宏さんは、この冊子に4ページに渡って思いのあふれた巻頭言を寄せている。
やはり市川さんも、この冊子の主人公は物語の語り手であるとし、その語り手の思い、動機、出会いをできる限り大切に文章としたと述べている。

この含むところは大きい。私達は語り手なのだ。自分たちで、自分たちの言葉で自分の人生を語り、自分の故郷の歴史を語る主体であるというのが、この冊子全編にあふれる思いであり決意であり、希望なのである。どれだけの思いを私達は持っているのか。どれだけの思いを自分の人生に持ち、他者に持つことができるのか。共生社会は誰かが与えてくれるものではなく、私達の思いと言葉を紡ぐことで生まれる。

市川一宏さんの結語はこうだ。
「本書によって、過去、現在、将来をつなぐ連続性、必然性を理解できたときに、今の閉塞状況を打開する新たな物語が生まれると、私は確信しています」
あるいはこの言葉をして、共生社会のつくり方としてもいいのかもしれない。

全国のどこの地域にも物語の主人公がいる。そしてどの物語にも、地域の福祉力の源泉がある。
この冊子は、共生社会の希望をなにより自分たちの言葉で物語っている。必読冊子である。

|第282回 2024.6.4|

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