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認知症の定義

コラム町永 俊雄

認知症ってなんだ? といきなり問われたらどう答えるだろうか。生半可な知識がある人ほど混乱するかもしれない。「エート、まずアルツハイマーでしょ、記憶障害だな。そうそう、高齢者に多い。待て待て、若年認知症も忘れてはならないぞ」
で、認知症ってなに? 「ま、疾患であるのは確かだから病気なのだが、病気と言ってしまうと、ちょっと違うんだなあ。治るのは難しいし」 ある小学生が答えた。「うちのおばあちゃん!」そう言ってクスクス笑った。その笑顔で、おばあちゃんとともに暮らすその子の暮らしの豊かさが浮かぶような答だった。そこには「認知症」という疾患より前面に「大好きなおばあちゃん」がしっかりと存在していることが窺える。

認知症の定義にはこうある。 まず世界保健機関による国際疾病分類というのがあって(ICD-10)、そこにはもちろん記憶や認知機能の低下が記されているのだが、私が「へええ」と思ったのは認知症の診断基準の必須条件として「日常生活動作や遂行能力に支障をきたすこと」と記載されていることだ。
つまり、だ。くらしに支障がない症例は認知症と診断しない、としているのだ。これは最近よく言われるようになった、認知症を「生活障害」として捉える視点であり、このことがケアの実践の大きなバックボーンになっている。
確かに記憶は曖昧になり、出来ないことも増えてくる。しかし、そこに適切な支援、ケアがつながることで支障のない暮らしが可能になるのである。「なにもわからない人でも、なにも出来ない人」でなく、自分の人生の舞台に再び立つことが出来る。この診断基準を広義に解釈すれば、適切な支援さえあれば、その人は支障のない暮らしを営むことが出来る人であり、「認知症」という疾患者ではなくなるということだ。

もうひとつ、これもよく知られた米国精神医学会の診断マニュアルで、1987年とちょっと前の改訂第三版(DSM-Ⅲ)によると「仕事、社会生活、人間関係が損なわれること」という項目がある。
いずれの診断基準も脳の器質的変化をふまえながらも、そこにくらしや社会の側の要件を必須の条件として盛り込んでいることに、いまさらながら新鮮な印象を持つ。
ここにあるのは、認知症の人には、地域の暮らしや社会の側に支援とつながりが必要であることの、国際的な専門機関からの確かなメッセージであると読み取れないだろうか。
そしてもうひとつ、ここに示されているのは、認知症は後天的な脳の障害であると同時に「関係性」の障害であるということだ。「くらし」であれ、「社会生活」であれ「人間関係」であれ、それは認知症の人の側だけの障害ではなく、私達の相互の関係性が問われているのである。

認知症の症状は「時間」「空間」「人間」の障害であるといわれる。
たしかに「時間」は現在から過去へと遡行的に失われていく。「空間」。今どこにいるのかわからなくなり、慣れた道に迷い込む。そして「人間」。身近な人がわからなくなる。「時間」「空間」「人間」は認知症の人の世界の迷宮であり絶望の暗闇かもしれない。
しかし「時間」「空間」「人間」の共通項はなんだろうか。ジックリと見つめるほどに浮かび上がるものがある。いずれの単語に含まれているのは「間(あいだ)」という漢字だ。認知症の人はその「間」をつなぐすべを失っていく。孤立することで「間」をつなぐ関係性も崩れていく。
認知症の人とあなたの間の関係をどうすれば、つなぐことが出来るのか。それは私達の側ができることなのだ。それがケアの心であり、社会の支援だ。
「時間」や「空間」や「人間」というそれぞれの「間」をつなげていく心と支援があればいい。
そうすれば、あの小学生のように、笑顔で「うちのオバアちゃん」と呼びかけ、共に暮らしの中を歩んでいけるはずなのである。 

| 第19回 2015.7.10 |