認知症EYES独自視点のニュース解説とコラム
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未来の扉を開く

コラム町永 俊雄

私達の暮らすこの社会は、世界一の「認知症社会」であり「認知症国家」であり、そして現在と近未来は「認知症時代」である。そのことは間違いない。
で、だから?
今年1月に発表された「認知症国家戦略」。その冒頭には認知症の人の推計値が掲げられている。2014年に認知症の人は462万人。高齢者の7人にひとり。それが2025年には700万人、高齢者の5人にひとりとなる、とある。
で、だから?
新聞やテレビで、私達の社会のこれからに関わるデータが次々と発表される。おなじみの、日本の高齢化率25.1%で過去最高。しかも高齢化率は上昇し続け2060年には40%だから、2.5人にひとりが高齢者。さらに高齢者のいる世帯は全体の40%で、その半数が「単独」か「夫婦」のみ、と言ったデータなどなど。
で、だから?

「だから」あなたはどう考えるのだろう。こうしたデータが相次いで示される時、人はどのように受け止めるのだろうか。よしっ、やるぞっ、とすっくと立ち上がる人を私は目撃したことがないから、多くの人はヤレヤレとため息ついて紙面をたたむか、あるいはそうしたデータに不感症になっているのかもしれない。
私自身は、こうしたデータの向こうの何処かに「恫喝」の響きを感じる。私達の社会の壊滅的な状況を示して、震え上がらせて、そしてどこに連れて行こうとするだろうか。そこには未来への扉が私達の面前でゆっくりと閉ざされていくような恐怖が張りついている。
匿名的な誰かが「だから、さ」と、増税とサービスの切り捨てと医療財源や社会保障の削減を妙に冷静につぶやいているような気がする。いやね、ワタシだとて財政健全化という大正義のための財政論議はぜひとも必要だと思う。さもなければ次の世代にサスティナブルな福祉社会を引き渡すことが出来ない。

しかし、こうした公正をよそおったデータの提示は、生活者の声を封殺させる圧力として作用する。
本来は、市井のオッサンやおばちゃんや学生やお母さんが「だからさ」「だからね」と自身の意見形成に参加しなくてはならないのだ。でもどう考えても無機の数値データを生活実感に結びつけることには無理がある。
認知症の人が10年後には高齢者の5人に一人になります。「だから」あなたはどう考えますか。この乱暴な設問設定は、意地悪く見ればハナから生活者の感覚を除外しようとしている。
国家戦略では、そこを「だから」新オレンジプランで「認知症にやさしい社会を」と、「だから」をつなげる。つなげる道筋があまりにスカスカで、これでは地球温暖化で地球は砂漠化する、「だから」一家に一頭ラクダを飼いましょうというようなものではないか。

若い人と話していて意外に思うのは、認知症の高齢者と接したことがない人が案外多い。これだけ認知症社会だというのに、核家族で若者の人生に高齢者との接点なく(エレベーターで追い抜くことはあっても)、ましてや認知症のお年寄りと出会ったことも、話したこともないという。
データの中の数値としての「認知症」でなく、地域や暮らしの場で、例えばコンビニやデパートであるいは公園で、生身の認知症の人と接点を持てるような工夫が必要なのではないか。認知症の人と話した経験だけでも、その若者はデータの数値を自分の実感に変換できるはずだ。
「認知症にやさしい社会」はデータの羅列では立ち上がらない。暮らしの中の人のつながりでしか、「だから」と切り出していく未来への扉は開かない。

「認知症にやさしい社会」へ。データでこじ開けるのではなく、地域の認知症の人の力が必要だ。

| 第20回 2015.7.24 |