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「認知症とともに生きるまち大賞」とホームレス

コラム町永 俊雄

▲ 例年開かれる「認知症とともに生きるまち大賞」は全国からたくさんの応募がある。これは単に「認知症」だけのイベントではない。この社会の未来を拓く確かな各地の取り組みだ。写真上段は、2018年の表彰式の参加者たち。下段は選考会の会場NHK放送センターと、右は丹野智文、永田久美子、町永俊雄の各選考委員。忙しくて他の委員は撮影できず失礼した。

台風19号の時、地域の避難所に現れたホームレスの男性を、避難所の担当者が「区民ではない」として断ったという事態が起きた。誰もが強い違和感をもったはずだ。
「とんでもないことだ」「あってはならない」と。実際、この件は報道を受けて区長が謝罪したのだが、それで一件落着というわけではないだろう。ここを少し深く考えることが、この地域社会と私たちを誠実に検証することになる。

私たちの話し合いでは、こうした時、必ずと言っていいほどこうした声も上がる。
「しかし、実際に避難所であなたの隣にホームレスの人が来たら、どう思う?」
さて、これは率直な意見であるとともに、どこか意地悪さも含まれている。
「けしからん、というあなただって、自分のこととなればどうなんだ」と、人の正義感の中のエゴをえぐり出す。
言われた人も言葉に詰まって、「ではそういうあなたはどうなのだ」と反問するしかない。となると、最初に言いだした人もまた言葉に詰まり「いやまあ、そりゃ、ちょっと困るかな」

最初、勢いよく「けしからんことだ」と言い合った人々が、「そりゃまあ、なんというか・・・」と言ったぐあいにそれぞれが畳の目を小さくむしり、「難しい問題だ」というあいまいなつぶやきを結論にして、さて、とそれぞれが立ち上がって、それぞれの所に帰っていく。
なんとなく、互いに良心をつつき合うようなことをしただけで、結局現状は何一つ変わらない。よく見られる風景かもしれない。

無論、行政的にはこのことで今後改善されていくだろう。そうでなければ困る。しかし、こうした差別、排除の感覚は、他人からの批判を受けたから謝罪して、「今後このようなことがないようにします」というお詫びだけで、実際現実は変わるのだろうか。
不祥事、謝罪、改善策というのは、確かに貴重な教訓であることは間違いない。しかし、今回の件についてはどこか表面的で、この社会の肝心の成員一人一人の意識と体質改善にまで届いていかないような気がする。

実はここに根深く潜むロジックがある。
何かの異議申し立てに対して、言われた側の「ではどうすればいいのか、その対案はあるのか」と言った反論である。これは往往にして、国だとか行政者の側、場合によると「評論家」と呼ばれるセンセイ方がよく使うロジックである。
生活者からの異議申し立てに「そんなこと言われてもなあ、財源も人手もない中でさ、ではどうすればいいのか、そちらで対案を出してよ」と言った「対案提出の要求」というのは、この場合、どこか異論を封じる傲慢な手口である。卑怯な感じもする
「対案」を出せ、ということはほとんど、それは「やる気がない」ということと同義の場合が多い。

私たちはどう対応すればいいのか。私たちは、きっぱりと「それは違う」ということを言い続けることだ。「戦争はいけない」と断固として言うように。
なぜなら、国や行政の側に情報や権限が圧倒的に集中している時、「対案」という施策設計の実務的能力と責務はあちら側にあり、当事者は「対案の要求」に萎縮したり、妥協したりすることはない。当事者の側で、異議申し立てと解決の双方を担う必要はない。

私たちのやるべきことは、「それは違う」という異議申し立てを含めて、暮らしの中のリアルな感覚と、小さな声や声にならない声を、まっすぐに権限者に届けることだ。
たとえば、「避難所でホームレスの人を断るのは、あってはならない」と。
そして、そのことが、行政者、施策を変えていく力になり、実は、声を届ける私たちをも変えていく。

ここまでを踏まえて、冒頭の、避難所にホームレスの人を断った件を考えてみたい。
アメリカの図書館でも同じ事態が起きるという。公共の場である図書館にホームレスの人が来たらどうするか。ある図書館では、まずシャワーを浴びてもらい、それから寄贈されていた衣類に着替えてもらったりし、その上で図書館を利用してもらうという。

さて、これをどう考えるか。
冒頭のやり取りの「そうは言っても、あなたの隣にホームレスの人が来たらどう思うのだ」という設問には、個人の選択だけを解決策とする、互いに押し付け合う閉塞の思考がある。
これは逆転させれば、容易に「自己責任」に結びつく。ホームレスという事態を招いたのは「自己責任」である以上、その責任を理解し同情し、受け入れる「個人」だけに解決を求めるべきだ、という風に。

対して、アメリカでの図書館でのホームレス対応は、一つの対応策である以上に、地域への問いかけの性格を持つ。えらく時間もコストも手間もかかる対応だ。担当するのは図書館の職員なのか、ボランティアなのか、コストは誰が持つのか。タックスペイヤー(納税者)の意識が高い市民はどう受け止めるか。そうした具体的ないくつもの問いかけを、図書館の公共空間でのホームレス受け入れは、一挙に示すことになる。
としたら、それはたちまち、図書館はホームレスを排除するのか、受け入れる公共空間なのか、と言った議論が湧き起こり、私たちの社会はどうあったらいいのか、という意識に働きかける広がりを持つ。
ここから、私たちの地域を「どうすればいいのだろう」と言う互いの確かな対話が立ち上がるのである。

ここで初めて、私たちは、自分の社会参加の責務を意識し、「あなたの隣にホームレスの人が来たら」という設問を、「私たちの地域社会はホームレスの人と共生できるか」と、偏見や貧困や、社会保障の課題を、自分たちの暮らしの感覚に取り込むことになる。
「まちづくり」とは、こうした意識の変化をともなう。地域と市民が変革に向かう協働作業だ。

実はこうしたことは、先日開かれた今年の「認知症の人とともに生きるまち大賞」の選考会で出た議論の一コマにもとづいて記したものである。
「まち大賞」の選考会では、認知症のことだけを議論しているわけではない。認知症をめぐる地域の取り組みを議論することは、そのまま、この時代や私たちの意識の変化をも語り合うことになる。

このホームレスの人の受け入れ拒否のケースは、実は「認知症とともに生きる」と言うまちづくりに大きく関わる。暴言を吐き、「徘徊」し、あるいは引きこもる認知症の人を、地域の「困った人」と見るのか、それとも、あなたの隣の、暮らしに「困っている人」として見るのか、「共生」のまちづくりはキレイごとではない。あなたも地域も変わらなければ「共生」のまちも見えてはこない。

もはや、「今年は台風の当たり年」などと捉える次元を超え、この「当たり年」が例年のことであるとすれば、最大の防災力は地域の「人」である。
あの台風19号の比類ない暴風雨の中、最大の防災の力である「人」はあまりに脆弱ではないか、あのホームレスの人はどこかからやってきて、そのことを私たちに告げてくれたのかもしれない。

そんなことも話し合いながら、広く地域が「認知症」を受け入れる文化を醸成できるか、そんなまちづくりの取り組みはどれか。「認知症とともに生きるまち大賞」選考会はそのようにして進んだ。
いい選考会だった。(自分で言うな)

▼NHK厚生文化事業団「認知症とともに生きるまち大賞
2019年12月7日(土)「東京国際フォーラム」で表彰式と記念シンポジウムを開催予定

|第119回 2019.10.23|

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