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「私たち」の、認知症とともに生きるまち

コラム町永 俊雄

▲上段、大江健三郎「晩年様式集」。下段、「認知症とともに生きるまち大賞」のオンライン参加を含めての選考委員会の様子。コロナとの日々は、「ともに生きる」ことを問い返した。それはひとりでは生きられないこの社会の誰をも動かしていくのだろうか。

今年の「認知症とともに生きるまち大賞」の選考委員会が開かれた。
NHK厚生文化事業団の主催で毎年開催され、今年で4回目だ。
しかし、その源流をたどれば今から16年前の2004年に、「痴呆の人とともに暮らす町づくり」として、すでに認知症との共生モデルを先見的に打ち出していたのだ。
当時の実行委員長が長谷川和夫氏、選考委員長が堀田力氏というメンバーだった。
ここでの受賞者の多くが各地の認知症活動のリーダーとして今も活躍している。

今年はこのまち大賞の長い歴史の中でも経験したことのない異例の選考委員会となった。いうまでもなく、新型コロナウィルスの日々の中での「まちづくり」なのである。
応募数も例年になく少なかったのも、地域の苦渋に満ちた現実を窺わせ、胸が痛む。

緊急事態が宣言され、医療介護の体制の崩壊のリスクの中で自粛、ステイホームが要請され、オフィス街、繁華街、学校、地域の公園、通勤列車、どこからも人影が消えた。街ゆく人々は誰もがむっつりとマスク姿で、悪夢のような、SFの世界のような光景がひろがった。

そのような中で「まちづくり」など出来ようはずもない。
今年の「認知症とともに生きるまち大賞」をどうするか。果たして成立するのか。
選考委員それぞれがしばらく押し黙ってから語り合ったのは、やはり今年だからこそ、この大賞が存在すべきだということだった。

新型コロナウィルスによって、地域のつながりが途切れたとされた今年だからこそ、「認知症とともに生きる」地域が語られねばならない。
「まち」や「まちづくり」という概念を捉え直すことが必要ではないか。
「まち」というものを地勢的な限定空間とするのではなく、私たちの共生の想いがどこまでもしなやかにつながる共同体像なのだと捉え直し、「まちづくり」とは、対話することであり、一人ひとりの想念の中に組み立てることでもある。
そのようにして、新たな概念としての「まち」と「まちづくり」は、この事態の中、オンラインで各地から発信され、そのつながりは自在に編成され組み直すことができる「まちづくり」を可能にした。

地縁、血縁のしばりを解きほぐし、若さから老いへの時間軸、まちと社会といった地勢軸、この時空と地理空間の広々とした座標軸の設定が、実は本来の「認知症とともに生きるまち」なのかもしれない。新たな社会システムは、この困難を奇貨として生まれるのかもしれない。

話は遡る。私が以前(ほとんど昔の話だ)渋谷の放送センターにいた頃、番組制作班には海外からのスタッフも配属されていた。私とよく話したのは、イギリスから来た青年で、妻はトルコ系フランス人のアーティストで、結婚すると二人でイタリア、インド、あとどこやらに(忘れた)トランジットするように移り住みながら、日本にやってきた。
「私はどうも東の方に引き寄せられてきたネ。だから日本に来るのは必然だったあるよ(というような喋り方ではなかったが)」と彼は語るが、そのノマド(遊牧民)的発想は、少なくとも私には持ち得ないもので、とにかく新鮮だった。

ある時、彼に「ここでの放送を見てどう思ったか」と聞いてみた。
彼は、「どうもわからないことは、ここではキャスターが「私たち」と語ることだね。「私たちの課題です」とか、「私たちはどうすればいいのでしょう」といった具合に。イギリスでもフランスでも、キャスターが語る場合は「私は」と切り出す。だってその人の見解、意見なのだからね。なぜ日本ではキャスターが「私たちは」と語るのだろう。誰が語っているのだろう」

むむむ、当時は私もキャスターの立場だったから、返答に詰まった。
日本語は主語が曖昧である、とはよく言われていた。主体として引き受ける論説というのがなく、個は常に全体に埋没しながら、誰もが納得しうる妥当な言説を組み立てる、と。

あの時は、彼のターコイズブルーの瞳になぜか気後れしながら、日本の文化風土の特質あたりに逃げ込んでお茶を濁したようなかすかな記憶がある。

しかし今、私はある確信を持ってこの社会を語るときに、「私たち」と語り始める。
ここでの「私たち」は、かつての主語の曖昧な均質社会に逃げ込むような「私たち」とは決別している。
東日本大震災と原発事故を経験し、そしてこのコロナの時代を語るときに、私の語りは「私たち」でなければならないのだ。
それはカテゴライズする言葉ではなく、一括りにする匿名集団でもなく、ここにある「私たち」は、「私」という個のそれぞれが意志を持って屹立するようにして連なる主体としての「私たち」なのである。

言葉を変えれば、この「私たち」には、誰もが当事者であることへの呼びかけがある。言外に「当事者である私たち」あるいは、「当事者であろうとする私たち」という新しい時代の機運であり、「私たち」に吹き込まれるのは、そのような決意と覚悟と祈りであるとしている。

だから私は、「私たち」と語りかけるとき、胸一杯の思いを込めて発信する。群れて後ずさりする「私たち」ではなく、風に向かって拳を握り締めて立つような「私たち」なのである。

人はひとりでは生きられない。新型コロナウィルスの日々は、誰もがそんな人間存在の深くに思惟の錘を沈降させることで、誰もいない街の向こうに、この社会の本質的な脆弱を見たからだ。

人は互いの関わり合いの中であたえ合う関係性の中でしか、生き延びることはできない。子供は育ちえない。高齢者は安心できない。認知症の人とともに生きることはできない。

今地域包括や共生社会を語るとき、必ず「じぶんごと」をキーワードとして前に置く。
しかしそれは、誰ものコロナの経験に洗われて、「私たちごと」となって浮かび上がったはずである。だから、今年の「認知症とともに生きるまち大賞」は、「私たちの社会づくり大賞」にしなければならない。

私の書棚の片隅に大江健三郎の「晩年様式集(イン・レイト・スタイル)」と題した一冊がある
大震災から間もないときに求めたのはその美しく抑制された装丁と、その帯の文面に、
「この最後の小説を私は円熟した老作家としてではなく、フクシマと原発事故のカタストロフィーに追い詰められる思いで書き続けた」
と著者が記していたことに惹かれたからだ。

先日ふと、このコロナの時代の状況になにかを思い出して再読。
そこには、この「追い詰められた」老作家の苛立ちや絶望、晦渋の思いが、余震が続く中、周囲の人々との語り合いと葛藤のうちに痛ましくもねじれるように綴られている。

そしてこの書の最後に、(そうだ、これが心に引っかかっていたのだ)この老作家が「若い人に希望を語る詩」としての引用があった。
長い詩篇のしめくくりに、この老いた人は希望を次のように刻印した。

小さなものらに、老人は答えたい、
私は生き直すことができない。しかし、
私らは生き直すことができる。


老作家の「新しい希望」とは
「私らは生き直すことができる」なのである。
「私ら」という「私たち」の共同体の希望。

|第157回 2020.11.5|

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