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「認知症とともに生きる」ノート その3 〜「自分ごと」と認知症〜

コラム町永 俊雄

▲私たちの暮らしは毎日の歩みがかさなって成り立っています。この道はどこに続くのか、季節はまもなく芽吹き、新緑になり、憩いの木陰をつくるでしょう。それを私たちは希望と呼んでいるのかもしれません。(新宿御苑にて)

このコロナの日々、「認知症とともに生きる」ということを、この社会の大きな推力とするためにはもう一度、これまでの共生社会の点検が必要です。私はこのコロナの日々を、失われた2年間とはしたくないのです。失政はあっても、私たちの日常は学ぶことができる可塑性を持っています。暮らしが継続していくのは、そうした学びと修復があるからなのではないか、そう思います。

そうした暮らしの視点からすれば、すでに認知症の捉え直しが始まっています。
かつての医療や介護の視点はいってみれば「認知症を見る」ということでした。これはその専門性からすれば当然なことではあっても、どうしても疾患としての認知症に傾きがちです。
対して、「認知症から見る」ということは、認知症の人とともに、この社会を変更可能なシステムと捉えることです。幅広い共生のソーシャルアクションにつながることになります。
去年の秋に丹野智文さんが出した著のタイトルが、「認知症の私から見える社会」となっているのは端的にそのことを語っています。

「認知症を見る」のではなく「認知症から見る」といった視点の転換は、認知症を対象化したり問題化するのではなく、自分を起点とする「自分ごと」につながります。
いうまでもなく、「認知症とともに生きる」ことには、私たち一人ひとりが、認知症を「自分ごと」として内面化できるかが大きな問いかけとなりました。
では、そもそも認知症を「自分ごと」とするって、どういうことでしょうか。

「自分ごと」って最近あちこちに顔を出しますね。もともと出始めは、2017年の厚労省が打ち出した「地域共生社会」ビジョンの中に「我が事・丸ごと」といった妙に砕けた呼びかけとして盛り込まれたのが始まりと言っていいでしょう。
「我が事」って他人から言われてもなあ、といった感じがしたのを覚えています。福祉財源が底をついたからと言って「我が事」に「丸投げ」じゃないか、なんてね。
だから、「認知症は誰もがなりうる。なので自分のこととして考えましょう」と「他人事」のように言われてもすんなり受け止められないのです。

そこには、世の中の「認知症になると破滅的なことになる」というのが暗黙の前提として潜んでいます。おまえも認知症になるんだぞ、と脅しをかけて、だから「認知症にやさしい社会」にしましょうというのは、前提の脅しとしてのネガティブな認知症観と、そこに接続させた「やさしい社会」の共生モデルとがねじれています。ここでの「認知症とともに生きる」とは、いわば恐怖システムで人々を動かそうとしているようなものです。

つまり「自分ごと」というのは、自分がどうのこうのといったレベルではなく、その自分を包み込んでいるこの社会のネガティブな認知症観の側を変えることなくしては成立しない概念です。
これは結構大変です。個人レベルでいくら認知症への理解を深めたところで、それが社会全体が共有する「なったらおしまい」の認知症観の変更につながらなければ、結局、「認知症とともに生きる」は、意識高い系の人々のギルド(特権的組合)での仲間内でしか通用しません。
ここにある「自分ごと」のトートロジー(堂々巡り)には、やはり「認知症を見る」ことの限界があるようです。

多くの人が、認知症を自分ごととして捉えることを、自分が認知症になることを引き受けることと考えます。自分が認知症になっても、うろたえずそのことを受け入れて、困ったことには支援を求め、できることは自分で選択と決定をし、自分らしい人生を送ること。それが「自分ごと」としての認知症の姿である、と。素晴らしいと思います。
でもこれって、無理がありませんか。

このほとんど模範解答のような見解の出所は、認知症当事者発信のパクリです。しかし、当事者の発信する認知症は、そのまま一ミリの余白もなく自分ごとなのです。自分ごとそのものから発信しているのが当事者本人なのです。
このコラムで今語ろうとしているのは「認知症とともに生きる」というまだ認知症になっていない私たちの「自分ごと」です。私たちは「自分ごと」を自覚的に獲得しなければならない。それは、認知症当事者の自分ごととは大きな違いがあります。その違いが、実は共生を生む活力なのです。認知症の当事者と同化する事ではありません。

認知症を差別や偏見を持たずに自分ごととするのは、確かに正しく立派だし、そうありたいとは思いますが、そうした際立った人格に変貌することでしか「自分ごと」にできないのなら、やはり、この社会のネガティブな認知症観を変えていくのは現実的ではないようです。

だって、私にしたって、認知症にいささかの偏見や差別は持ってはいないつもりですが、それでも、じゃあ、すすんで認知症になるか(こうした設定はありえないのですが)、と問われれば正直たじろぎます。ヤッパなあ、と私は非難されるのでしょうか。それとも、そうかおまえもか、とどこかホッとされたりするのでしょうか。

要するにこうした文脈で「自分ごと」を探り当てるのには、無理があるのです。それは「認知症を見る」からです。
では、対する「認知症から見る」ということはどういうことなのか。ちょっと想像力を働かせれば、ここにすでに「自分ごと」が見えているはずです。認知症からこの社会を見つめ直そうとしているのは、あなたです。そしてそこに先行者としての認知症の当事者がいるのです。このことが「認知症とともに生きる」ということになりませんか。

でもまあ、こうした理路整然とした答えで納得するわけにはいきません。これでは理屈はついても、いまひとつ「自分ごと」がリアルに見えてきません。暮らしの中の私たちは思い迷い、揺れ動く存在です。そのことも含めて、もう少し、グダグダと他の角度から考えてみることにします。

あたりまえのことながら、この社会は「認知症の人」と「まだ認知症になっていない人」の共存で、そこに「ともに生きる」理念が置かれています。どうもこの共生理念の正義に引っ張られているようなのですが、この場合のまだ認知症になっていない人というのが、どうも私には、認知症を正しく理解する「良き市民」だけが設定されているような気がしてならないのです。

でも、現実にはこの「まだ認知症になっていない人」のかなりの人々は「認知症になりたくない」と思っています。この人たちの受け皿が、認知症予防です。
良識ある医療者が「認知症予防には医学的に確かなエビデンスはなく、誰もがなりうるのが認知症なのです」とどんなに穏やかに語りかけても、人々は静かにうなづきはしますが、心の内では納得はしないのです。認知症との共生を語るときに、この「なりたくない」人々はどこに位置付けられているのでしょうか。
この「認知症になりたくない」とする人々に向かって、「認知症とともに生きる社会」にとって話がややこしくなるので、あんたたちは外に出ていてくれ、というわけにはいかないのです。

私は、やや逆説的に言えば、こうした「認知症になりたくない」人々こそ、認知症への関心がリアルで、深いのだと思います。こうした人々は「認知症から見て」いるからです。
地域に認知症になったときの適切な支援や資源の空白や共生モデルの不在を感じ取って、行き場が予防しかないのかもしれません。疾患の認知症を否定しているのではなく、認知症になった時の不安に社会は応えてくれないことを敏感に感じ取っているのではないでしょうか。

実は「認知症とともに生きる」ための実現には、多数である認知症になりたくないとする人々がどう動くかにかかっています。こうした人々こそ、本当の共生への推進、実現によって、そこにある「なってはならない」という認知症観に縛られている自分を、ありのままの自分でいいとする包摂の認知症観へ転換をしてもらうしかないのだと思います。
だとしたら私たちの「自分ごと」とは、「認知症になりたくない」とする、その心情を否定するのではなく、そこに寄り添うようにして「安心して認知症になれる社会」に共に歩み出すことなのではないでしょうか。「認知症になりたくない」というのは、自分の側というより、ほとんど、社会の側から思わされているのです。認知症になりたくないと言う人々を排除して「共生」が成り立つはずがありません。

「自分ごと」が言われたのは、2009年のイギリス認知症国家戦略で打ち出された「Everybodys Businessとしての認知症 」からだと言われます。
「Everybodys Business 」は直訳すれば「誰もの仕事」となりますが、その本意は「誰もに関わること」ということになります。認知症は誰もがなりうるので、まさに誰もに関わることです。しかし、ここにはもうひとつの意味があります。これが大切で、それが「誰もが関わること」で、これが自分ごとなのだと思います。
「誰もに関わること・誰もが関わること」、このふたつが相まってが、認知症を「自分ごと」とすることなのです。

誰もが関わること、これは能動の言葉です。誰もが「自分ごと」としてどうこの社会に関わることができるのか。それは間違いなく「認知症とともに生きる」ことであり、「安心して認知症になれる社会」の構築なのです。

ではでは、to be continued.(つづく)

|第205回 2022.3.22|

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