▲認知症の本人の声はガイドブックや手引きとして数多く出されている。しかし、これはただの情報に過ぎない。活用とは、一人ひとりのナマの現実感覚を呼び起こすことから始まる。
認知症の当事者の発信が盛んになってずいぶんたちます。
当事者の発信は大きな力となってこの社会を変革してきました。認知症の人の声はまず、全国の地域で、息を潜めるようにして暮らしてきた多くの認知症の人の背中を押しました。
それまで、地域の自治体の担当者が、ここには認知症の人はいませんと公言してはばらなかったのが、時間を圧縮するようにして振り返れば、当事者発信に勇気を得て、続々と認知症の人々が地域の中に歩み出していったのです。
そうした認知症の人たちにとって、なにが一番の支えになったのか、それは同じ境遇の当事者がいることでした。当事者が当事者に出会うことがどれだけの力になっているのか、そのことが今のオレンジドア、ピアサポートや本人ミーティングなどの取り組みにつながって、今や当事者が創り上げた新たなネットワークとなっています。
それが、当事者の言う「認知症だからこそできることがある」と言う言葉であり、「私たちは認知症経験専門家だ」と言う言葉に結実しています。
そうした動きの中で、地域社会でもまちづくりや認知症カフェ、居場所づくりといった文化も芽生えてきています。これは当事者の声を聴いた人々が、それを引き受ける形で生み出したあたらしい動きで、ここに「認知症とともに生きる」と言う合言葉が置かれています。
しかし、この「認知症とともに生きる」道筋はそう易々と拓けているわけではありません。
いただきを目指す山行は、険しい山道を登るほどに新たな視界が開けます。確実に歩みを進め、高度を稼ぐほどにこれまで樹々で隠されていた岩壁が見え、果てなく続くような尾根道が目の前に広がってくるのです。
確かに、認知症とともに生きる取り組みは広がり定着もしています。しかし、それはまだ、医療、ケア、地域活動などの関係者の中だけでの、いわば麓の歩みです。今後登るほどに課題という峠がいくつも現れてくるはずです。ゆるやかな麓のトレッキングで満足しているわけにはいかないのです。私たちは、社会の森林限界を超えて歩み続けるのです。
認知症の当事者発信が盛んになったことは、この社会の認知症をアップデートするはずでした。この社会の旧来の、認知症になると「何もできなくなる」「何もわからなくなる」といった一律の認知症観を一掃してもいいはずです。
でもそうはなっていません。JDWG・日本認知症ワーキンググループ代表の藤田和子さんは、2020年1月の希望大使の任命イベントでも、まず「この社会には今なお認知症への差別と偏見が満ちています」と語りました。希望大使として、生半可な希望よりもまず現実から歩み出すしかない覚悟を語った藤田さんの姿は、今も印象に残っています。
さらに難しいのは、認知症への関心が高まっている中での差別や偏見というのは、顕在化したものばかりではありません。むしろ、あからさまな悪意や偏見ではなく、認知症に一定以上の関心を持つ人々の中にそうした偏見が隠されているのです。当の本人がきづかないままに。
発信する当事者と語り合う中でよく話題になるのが、聴いた人の反応に、「あなたはちっとも認知症らしくない」といった言葉が根強くささやかれているというのです。
あんなに上手に話せるのに、困っているようには見えないのに、あんなに明るくて元気で、そんなあなたはちっとも認知症らしくない、というわけです。
こうしたことを言われる認知症当事者の表情は複雑です。それは怒りというより、むしろ困惑であって、俗に言えば「そんなこと、言われてもなあ」といったところでしょうか。
それに対する当事者の自衛策としては、「では、認知症らしくふるまった方がいいのか」と悩みます。「スマホが使えるなんておかしい。オレだってうまく使えないのに」と言われた丹野智文さんは、スマホを使えないように見せようと思ったと、その著に書いています。
最近、自身のインスタグラムの発信で注目を集めている京都の認知症当事者の下坂厚さんも、オンラインセミナーに妻の佳子さんと参加した時、佳子さんが、認知症になっても明るく元気で過ごしている姿を伝えたいのだが、聴いた人から介護の苦しみがわかっていないと言われ、「やはり、私たちのつらいことや大変なことも語らないといけないのか」と悩んだといいます。つらく大変なことも語らないと、一般の人は納得してくれないというのです。
私が難しい局面に入っている、というのはここにあります。認知症に心寄せる人々の中に潜在する偏見をどうとらえればいいのか。そのことについて、これは去年のコラムにこんなふうに記しました。以下に再録しておきます。
「厄介なのは、と、こんなふうに俗な感覚で語っていいものかどうかわからないのだが、認知症当事者の話を聴いて「認知症らしくない」という実感を持つ人の多くは、身近に認知症の人がいたり、懸命にケアしている人々なのである。
そうした人が素朴に感じる「認知症らしくない」という感覚には、だから、どこか自分の接する認知症の人と比べての悲哀が滲んでいる場合もあり、一概にこれを差別や偏見だと否定し葬り去ることができないところがある、と私は思う。
おそらく、「認知症らしくない」とするその人は、身近な認知症の人への愛情から、溌剌とした当事者の姿や言動に、幾重にも屈折した感情を抱いてしまうのかもしれない。
あるいは、当事者の話は十分に理解はできても、そのことを認めることは、認知症を持つ大切な人への存在の否認になるという無意識の防御が、「認知症らしくない」という発想を生み出すのかもしれない」(引用は以上です)
私は、こうした「認知症らしくない」とする人々の思いもしっかりと抱きしめるようにして初めて「認知症とともに生きる」ことになるのだと思います。
今、私たちはこうした声にどう反応しているのでしょうか。
ただ、うなだれるしかないのか、それとも「偏屈な無理解者」として無視しているのでしょうか。
私は、実は、当事者の話を「認知症らしくない」とする人々を問題化するよりも、そうした声に対して、きちんと自分自身の思考や態度を形成することなく、あいまいなままにやり過ごしている多くの、一見、理解者の姿をしている側の課題の方が大きいのではないかと思います。
自分の態度を決定しろ、と言うのは、何もその「認知症らしくない」とする人々を説得することではありません。説得とは、その時点で、あなたが正しい側で、相手が間違っている人としてしまいます。
当事者の声を聴くと言うことは、互いのさまざまな価値観をすり合わせるようにして、みずからが価値判断をしていくということです。それはどこかで痛みを覚え、傷つくリスクを負うことにもなります。当事者の発信というのは、そうしたプロセスをくぐり抜けています。
ですから、当事者にとっては、「認知症らしくない」と言われるリスクも、あるいはどこかで織り込み済みなのかもしれません。それよりも当事者が示したいのは、「認知症らしくない」自分を、地域に歩み出した当事者に見てもらいたいのです。いつも笑顔で、溌剌と暮らせるという認知症のロールモデルを当事者に示したいのです。そのことで、世間のネガティブな認知症観に屈しないでほしいという切実なメッセージを発信しているのだと思います。
私たちは、認知症を考えるとき、無意識に「認知症らしさ」にとらわれています。
認知症の人のつらさや困難を、やはり、「何もわからなくなる」や「何もできなくなる」ことのつらさと捉えてしまっています。そのことを理解することが「認知症とともに生きる」ことと錯誤しています。
それは、認知症ではない側、健常者と言われる側の発想で、自分たちの健康観を基準としているところがあります。
当事者の本当のつらさは、認知症の人というレッテルを貼られて、この社会から自分が奪われることなのです。
認知症当事者の声を聴くとき、多くはどこかで自分たちの都合の良い、受け入れやすい「いつも笑顔」の認知症者像だけを選択的に聴いてしまっています。そして、「認知症なのに、スゴイ」と感動するのです。それって、ほとんど「認知症らしくない」と言っているのと同じです。
当事者があくまでも明るく「いつも笑顔」でと、私たちに語るのは、笑顔でいることができないこの社会の側の「認知症らしさ」を打ち砕くクサビを放って、あなたの中の「認知症らしさ」の再検証を求める痛烈なメッセージなのだと、私は思っています。
偏見は私たちの側に潜んでいます。
ではでは、to be continued.(つづく)
|第207回 2022.4.13|