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認知症当事者が「働く」ということ

コラム町永 俊雄

▲ウィズコロナの認知症当事者勉強会、世話人会の様子。小さな会合だが、動き始めた社会の一角の大きな思いの再起動だ。

仲間と認知症当事者勉強会の世話人会を2年ぶりに、オンラインではなくリアルで開いた。
つまり、実際に集まってぐるりとテーブルを囲み、対面で話し合ったのである。それだけのことなのだが、それ以上に嬉しい。
世話人会の常連だけに、まあ、お久しぶり。おやまあ、老けたな(2年でそんなに老けない。もともと老けているのである)、とかで、かの国であればハグし合うのだろうが、ボクラは、微笑み交わす文化圏の人なのであった。
でも、要するにこれはあれだな。先住民が焚き火を囲んで、「オマエ、獲物、とったヨロシ」とか、「今年豊作あるね、天の星、そう告げるヨロシ」といった自分達の共同体を互いに確認するふるまいなのである。

久しぶりの世話人会での、今後何を語り合うかのテーマは、しかし、とびきりハードなのであった。とりあげられたのは、「認知症当事者の就労支援」である。
このテーマの背景には、政府が高齢者雇用安定法を改正し、70歳までの定年の引き上げか、あるいは継続雇用を企業の努力義務としたことが投影している。つまり、望むなら今いる会社で70歳まで働けるというわけで、となれば当然、そこには認知症と診断された人々がいるはずだからだ。
しかし、私自身はこの認知症の人の就労という個別に目を移す以前に、どうも、この恩恵としての雇用延長の向こうに、この国の少子化による生産人口減少の穴埋めと、社会保障費の破綻を防ぐためという思惑が鎌首をもたげているようで、働けるというより、働かされる、ではないだろうか、と思ってしまうところもある。

一方で、認知症当事者勉強会が、あえて認知症当事者の就労を取り上げるのは、さらに深度ある決意が込められている。それは、このコロナの日々の中で感じ取ったこの社会の「認知症」の再検討である。
「認知症とともに生きる社会」は、果たして社会の現実変更に喰い込んでいるのだろうか。
認知症との共生は、地域の隅々で語られ、その成果は積み上げられている。その通りだ。しかし、社会全体から逆照射すればどうか。それはいつも福祉的枠組みの中で、一定以上の関心を持つ人々との、いわば仲間内の達成感でしかないのではないか。

最も分厚い現実の壁としての、認知症の人の就労に立ち向かわないでいいのか。それを無謀として遠ざけていて、なにが当事者勉強会なのか、といった気分がどこかにあったのだろう、私はそう思う。
首相官邸の人生100年時代構想会議や70歳までの雇用などは、超高齢社会の未来を甘くささやくが、しかし、認知症の人の就労には、企業はただ冷ややかである。

世話人会での報告者は、多摩若年性認知症総合支援センターの来島(きたじま)みのりさんだ。
来島さんは、認知症の人の就労、再就労支援の実践の第一人者だ。
来島さんによれば、認知症を発症した人の多くが退職を余儀なくされ、その再就職は極めて困難である。働いていた認知症当時者の70.1%が退職、ないし解雇されている。ほとんど、企業の側からの認知症拒否、ないしは排除であろう。

「認知症でもできることがある」が通用しない現実が、企業とこの社会にはどっしりと腰を据えている。「だって働けないんでしょ」と就労窓口の担当者が言い放つことがある、と参加した当事者の丹野智文さんは報告した。

かように、認知症の人の就労を考えることはたちまちに現実社会にはりめぐらされた認知症へのスティグマの蜘蛛の糸にからみとられてしまう。そこをどうするか。それは差別であり偏見だとして、告発することはできるとは思う。しかし、それでは当事者と企業との接点を、残念ながら投げ捨てることにもなりかねない。就労というのは相互の了解と契約なのである。

このテーマは、実はこの社会のあり方の根底を論じることになる。福祉と現実、障害と健常、これまでの障害者雇用の実績を踏まえるなど、論点は多岐にわたり視点によって全く違う見解が可能だから、まずはその整理が必要だろう。

ただ、今回の勉強会の正式のタイトルは「認知症当事者が『働く』ということ」となっている。
ここがポイントだろう。就労支援ではなく、「働く」としたことに当事者性の視点からの就労の問い直しが込められている。

「働く」とは、かつての田園社会では、そもそもはたらく場と暮らす場が同一だったのが、産業革命以降の工業社会では、そこが分離された。人々は毎朝、家族と暮らす我家を出て、工場や職場にでかけ、そこでの労働の代価として賃金をもらうようになる。
以来、この社会は、社会学でいうところの、ゲマインシャフト(人とのつながりの共同体)から、ゲゼルシャフト(利益追求の合理的機能的組織)への変換が起きて現在の企業社会に至っているのだ。

とりわけ、新自由主義の中で、労働は、生きがいややりがいに偽装されながら、実態は隷従と苦役に置き換えられてしまった。一流企業と言われる職場はまた、心を病む人々を生み出しているとも言われている。
そうした環境に、認知症の人を追いやるようにして、彼らの居場所はあるのだろうか。

もちろん、ここでは認知症当事者の「働きたい」という意思を前提にしているのだが、しかし、突き詰めて眺めるようにすれば、それは本当に本人の意志なのであろうか。
「働きたい」と言わせている何かはないか。

この社会は、「働いてなんぼ」なのである。働いてこそ一人前なのである。それは一般的な規範として否定するつもりはない。しかし、認知症の人にそう言わせてはいないだろうか。
認知症の人の診断直後の自己スティグマは、「何もできなくなった自分」である。「社会に無用になった自分」である。そこに「働けなくなった自分」が加わるのはとても耐えられない。自己の内面のスティグマが、社会にむき出しになってしまうのである。

リストラされたサラリーマンが、朝に家を出て公園や街で帰宅時間になるまでを無為に過ごすとか、心病んだ人が、会社の入り口まできて立ちすくみ、ついに入ることができないというのは、私もよく聞いたエピソードである。

もちろん、経済収入の側面は忘れてはならないのだが、それとは別の位相で、「働く」こととは何か、と認知症の人が私たちに問いかけているのではないか。
その時、認知症ならではの要件としての「進行」をどう捉えるのか。それを、「働く」を考える際のネガティブな要件とするのか、老いていく社会をどう受け入れるのかの必須の要件とするのか。

「働く」は、生産と効率の文脈でしか成り立たないのだろうか。
認知症当事者が「働く」ということは、ともに生きることであり、弱さの共有であり、誰もが「ここにいていい社会」への転換のはずである。そこを目指してどこまで答えの出ない議論を積み上げることができるのだろう。

それとも、このテーマは、現実と物語を錯誤したドン・キホーテの猪突なのだろうか。
議論の本会は9月に予定されている。

|第215回 2022.7.5|

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