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君たちに何を伝えるか 〜成人の日に寄せて〜

コラム町永 俊雄

▲大人が若者に何かを言おうとすると、それはどこか説教であったり、自己顕示になりがちだ。それでも、かつて若者だった私に、今の私がクドクドと伝えたいことはなんだろう、そのような思いで記した。あの頃の私に伝えたい、と。

成人が18歳からとなって初めての成人式が行われた。
とはいっても、「20歳を祝う会」とするところも多く、18歳の成人式というのは少なかった。
成人の日というのは、本人の成人としての自覚であるとすれば、それは18歳であれ20歳であれそれぞれが決めることだろう。

でも本当は、成人式とは全く別に、どこかで自分を大人となったと感じる自分だけの成人の瞬間があるものだ。それは卒業とか就職だとかいう社会的な通過儀礼とは少し違って、自分の世界の変貌を自覚する内的な瞬間と言ったものだ。
夏が過ぎ去っていくようにして自分を包む空気の感触が変わり、「あ、」と自分の気づきを呟くようにして、そして誰もが大人の世界に踏み入っていく。

これは人によって違うのだろうが、大人の世界に入っていくというのは、私の場合はどこか諦念に彩られ、もうあの時代には戻れないという喪失感しかなかった。
もちろん、胸いっぱいの空気を吸い込み、希望に満ちて力強く成人の扉を開く人もいるわけで、割合で言えば、あるいはこちらの方が多いかもしれず、またそのことを健全な成長の里程と見る大人も多いはずである。

私たち大人の側にできることは、成人式の壇上で新成人に向かって激励し訓示することではなく(ま、これも大人の側にとっては大切なので、きちんと聴いてあげるのがいい。どのみち、君たちの目的は式が終わっての友達との再会と、おおっぴらの飲み会であるはずだ)、そう、大人の側にできることは、そのための懐の深い多様な社会を用意することなのだ。

作家の檀一雄は「娘達への手紙」というエッセイにこんな文章を書いていたと、娘で女優の壇ふみが記している。

お前達の前途が、どうぞ多難でありますように…。
多難であればあるほど、実りは大きいのだから。

すごいね。のけぞるな。さすが無頼派と称された作家だけあって真正の大人の世界への道を説いている。

青春というとただ甘酸っぱいだけの出来合いのドラマしか思い浮かばないかもしれないが、本来、青春というのは、自分でも制御できない荒れ狂う日々で、18世紀後半のドイツで沸き起こった文芸思潮の「シュトルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)」で、「若きウエルテルの悩み」のような思い悩む振幅の大きな日々なのである。

若い時の悩みの振幅が大きいほどに新しい時代を開き、その本人の人間形成の力になるとされる。だから檀一雄は、「どうぞ多難でありますように、そうであるほど実りは大きい」と娘達に「多難な未来」を祈ったのである。

迷惑な話である。山中鹿之介じゃあるまいし。
ただ、檀一雄のこの言葉は、実は深い愛情表現である。
無難であることを選ぶな。あなたの人生をあなた自身のものとすることは多難であったとしても、無難な道だけの痩せた人生ではなく、多難な、それだからこその豊かな自分の人生を歩むのだ。私には、娘達に宛てる無頼の父の、屈折した叱咤と励ましの声が聞こえる。

ただ、私たちのこの時代は「多難」という起伏に富んだ振幅の大きなシュトルム・ウント・ドラングの人生は失われてしまった。
高密度に入り組んだ経済社会は、失敗することを駆逐し、そこには単線でのっぺらぼうの人生しか用意されていない。若者から失敗や迷うことの自由が奪われてしまったのが現代だ。失敗や迷いは、ただ失点としてマイナス評価されるだけの現代。

若い時には、どこかで自分に突き当たる。
このままの自分でいいのだろうか…漠然としながら根深く居座るこの不安はなんだろう。
この不安はさらなる不安を呼ぶ。ではどうしたらいいのか。それがさっぱり見えない。ぐるぐると自分で自分を見つめまわし、おののいたり自棄になったり沈み込んだりする。
おそらく誰もがそんな経験を潜り抜けて大人になっていく。

思い悩むこと、迷いに迷うこと、その振幅がやがて大人になることへの駆動力となる。
檀一雄のいう「多難であれ」は、思い悩む「多難」が生み出す新たなあなたの人生だ。
大人になることは成人式がもたらすものではなく、自分を自分で育てることにしかない。

私は大人と呼ばれる年月を生きている。いや、君たちからすればすでに老人とされる年代になっているのだが、なお思い悩むことは多い。とりわけ若い世代に何がしかのことを伝えることは責務だと思いながら、どれほどのことが伝えられるのだろうかと思い悩む。

檀一雄のいうような健全な試練としての「多難」は、もはや、この社会には見当たらない。
ここにあるのは、君たちの存在をすりつぶす冷酷な「苦難」である。それは人間を人間として扱うということを忘れた社会であると言ってもいい。そうした社会の同時代を生きてきた私は、その社会を造った責任の一端を担っている。
果たして、君たちにわかったようなことを言う資格があるのだろうか。

しかし、ひとつだけ確かなことがある。それはこの社会は必ず君たちが担うことになるということである。とりわけ、時代はポスト・パンデミックというべきこれまでにない世界転換を迎えている。これまでの既成の社会の枠組みではなく、新たな人間の社会の姿を創造することができるのか。

私もまた、この社会を「どうしようもない社会」と罵りたい気分にたびたびなる。
しかしそこにあるのは索漠とした自分である。そこには、「自分ひとりが頑張ったところでどうにもならない」という捨て鉢がある。それは社会を捨てていると同時に、自分を捨てている。
が、その心情の深層にはあの若い時分の自分がいて、「このままの自分でいいのだろうか」という問いに答えを出せない苛立ちが、そう言わせている気がする。
「自分ひとりが頑張ったところでどうなるものではない」、そのセリフの裏には、「このままでいいはずはない」と思う自分と社会の切実が張り付いている。

君たちは思い悩む。私もまた思い悩み、惑いの日々を過ごしている。その一点で、私は君たちに何かを伝える資格があるのかもしれない。

ずっと以前、請われて新成人の皆さんへのメッセージを記したことがある。
それが以下の小文で、その時には、漠然と「懸命に生きること」を思い浮かべながら記した記憶がある。

「新成人の皆さんおめでとう。ただし、皆さんの未来は実はそれほど祝福に満ちているわけではない。そもそも若い時というのはつらいことがかなり多い。恋に破れ、仕事に行き詰まり、人間関係に悩み、家族をうとみ、自分に自信が持てなくなることの連続だ。
でも、若さはいつもそこから立ち上がる。悩みや失敗は、いつか人生の糧になる。失敗してもやり直せるのが若さの特権だ。

それは、この人生の終盤にさしかかる老人には眩しいほどに羨ましい。あなたたちには失敗できる時間があるのだ。
対して、老人には、もはや、失敗したり悩んだり、やり直しする未来という残時間はすくない。その代わり、老人には、たっぷりとした過去がある。それは、それまでの人生での幾度もの挫折と涙の収蔵庫だ。膝を屈してもそこから何とか立ち上がり、試行錯誤し、学び直しの経験を重ねた過去という時間の圧縮だ。
失敗と悩みの先達、知恵者、それがあなたの周りの「老人」という存在だ。

皆さんの未来がどのようなものか、私にはわからない。
ただ一つ言えるのは、皆さんは確実に老いていく。老いていく人生、おそらく誰もそんなことは視野にはないに違いない。
しかし、一日一日、あなたは未来という時間を、あなたの背後の過去の時間に繰り込んでいく。
人生とは、未来という毎日をあなたの過去に送り込んでいくことだ。若さと老いは別物ではなく、あなたの未来と過去は連続するスペクトラムなのだ。
あなたの未来と老人の過去の連続が社会をつなぐ。この社会は地域の横のつながりだけではなく、私とあなたの人生という時間軸を縦につないでいる。

あなたが深い挫折にうずくまった時、その時、その横にたたずむ人がきっといる。その気配を感じ取ることができるはずだ。そこにはあなたの人生の先行者としての老人がいる。それはまた、私たちが共に生きるという共同体の姿だ。

繰り返すが、あなたは確実に老いていく。それを衰退の人生とするか、それとも豊かな人生への歩みとするのか。
あなたの未来とは、あなたというひとりの老人像をノミをふるうようにして創り上げていく過程でもある。それが成人式を迎えた皆さんの人生のスタートラインだ。」

|第234回 2023.1.13|

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