認知症EYES独自視点のニュース解説とコラム
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朝花の唄

コラム町永 俊雄

目を上げればいつだってそこに噴煙を上げる桜島がある。錦江湾に浮かぶ桜島を眺めて育てば、この私だって気宇壮大なヒトカドの人物になったかもしれないではないか。「ならないならない」と隣りの運転席のヨコカワは即座につぶやくが、とりあえず、そんな気分にさせる鹿児島での認知症フォーラムなのであった。

その会場の鹿児島市民文化ホールで、終盤、奄美の朝花(あさばな)節が流れた。宴の時、結(ゆい)の時、必ず最初に流れる挨拶の島唄、朝花節。今日のこの良き日がいつもあなたの上にありますように。三味線が爪弾かれ、のどかな、しかし粒だったきらめく音色がフォーラムのステージから流れだす。
演奏したのは安田宝英さんだ。奄美島唄にこの人ありと言われ、在住の喜界島で知らない人はいない。40年続けた民謡教室から輩出したお弟子さん、教え子たちは数えきれない。島の人は誰もが、安田さんを「先生」と呼ぶ。

その安田さんが6年前に認知症と診断された。
「あんなにしっかりしていた人が、まさか・・・」と妻の未子さんは嘆いた。温厚な人格者だった「先生」に、嫉妬妄想、暴言、徘徊などの症状が現れた。未子さんの悩みは深い。地域の尊敬を集めてきた人だけに、今の夫の姿を知られたくない。誰にも相談出来ない。何より未子さん自身が認めたくなかったのだ。いっときは、一緒に海に飛びこもう、とまで思い詰めた。
家に引きこもり状態だった安田さんをデイケアに連れて行くが、そこでは安田さんのやることはない。孤立感の中で一日を虚しく過ごすだけだ。多くの教え子に囲まれていたかつての民謡教室の師匠の面影はない。
結局未子さんの力になったのは鹿児島の家族の会であり、地域包括支援センターだった。が、すごいのはそこからたぐり寄せるようにした島の人々のつながりだ。
「やっぱり先生は、三味線さあ」センセイ、と慕う島の人々は、認知症のことより何より、一番の先生らしさをしっかりと知っていた。出来ないことより、人生で輝くことを。カタカナの名称は知らなくとも素朴で確実な「パーソンセンタードケア」で次々と安田さんとつながっていったのだ。民謡教室の人、東京で活躍する愛弟子も駆けつけて、そこに誰もが顔なじみの地域の力も加わって、安田さんに三味線の演奏をしてもらうことにした。それまで茫然として過ごしていたように見えた安田さんは三味線を手に取るや、俄然変わった。あの師匠の音色だ。
医学的には「手続き記憶はなくならない」ということになるのだろうが、地域の人にはそんな難しいことは関係ない。ただひとつ、「センセイが戻ってきたさあ」 妻の未子さんは、思いと力を込めて夫の隣で太鼓のバチを振るった。

だから、会場でも演奏していただくことにした。未子さんに手を引かれ、背すじをすっきりと伸ばして安田さんがステージに出てきた。会場がどよめく。
安田さんが三味線を構えた。舞台袖で未子さんは両手をギュッと握り締めている。
朝花節。
挨拶の島唄。今日のこの良き日がいつもあなたの上にありますように。師匠の音、先生の演奏。ふるさとの島唄。
あふれるように、南の島の風のように三味の音が流れ出す。
会場の認知症の婦人が涙を流して聴いている。未子さんは舞台袖で目を固くつぶるようにしている。壇上のパネリストが滂沱と涙を流し、たまらず舞台袖に駆け込む。
そうだ、これは挨拶なのだ。認知症で言葉が出なくとも、その思いを三味線にのせて、今、安田さんは会場のみんなに心込めて挨拶している。
これは豊かなコミュニケーションなのだ。会場の人と壇上の認知症の人との想いの交流なのだ。今日のこの良き日を・・・。

見れば会場の多くの人が涙の中で聴き入っていた。悲しい涙ではない。思いが通じ合ったその喜びの、豊かな涙だった。

| 第10回 2011.10.4 |