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それでも「認知症にやさしい社会」へ

コラム町永 俊雄

▲ 「当事者研究勉強会」は、この認知症社会の岩盤を突き崩す「切羽」の役割だ。認知症に関わる全国のキーパーソンが集結する。ここから、認知症の人と家族の社会参画や、認知症の本人ワーキンググループの誕生につながった。翻って、これからはこの社会総体にどう働きかけるか。「当事者の声」と「社会の声」を響き合わせることができるのか。

このところの猛暑、酷暑の連続は、この地球環境の自己回復の破綻を示す悲鳴かもしれないように、私たちの社会保障の基盤である支え合うシステムが、やはり機能不全の前兆なのではないか。
というようなことを考えつつ、アスファルトの照り返しの中、「認知症当事者研究勉強会」の世話人会に参加した。

2012年から途切れることなく続くこの勉強会は、認知症当事者、医療者、専門職、メディア関係者、研究者、行政者などが集い、その時々の認知症社会をめぐっての議論の場である。
今回のテーマは「認知症にやさしい社会」。このテーマの陥穽は、往々にして、この標語の字句だけにとらわれがちなことだ。
「やさしさ」といった語感の曖昧さや多義に引っかかってしまうと、どうしても議論は、抽象のトートロジー(同語反復、堂々巡り)に陥り、空転する。

「認知症にやさしい社会」はお上がさし下した金看板ではない。
「これが認知症にやさしい社会だ!」と、ビシリとした「正解」が用意されているわけではない。
それは、認知症の当事者発信に至る「認知症」をめぐる動きの中で、私たちが獲得した地点だ。かつての医学モデル(治らない・わからない)から生活モデル(できることを支える)、そして社会モデル(共に生きる)への新たな方向性の中で打ち出された「問いかけ」が「認知症にやさしい社会」なのである。

確かにもっと的確な言葉であって欲しかった。でも、共生社会を端的に示すどんな暮らしの言葉を、私たちは持ち得たのだろう。
実は、私たちはこの「社会」を表す自前の言葉を持ち得ていないのではないか。「福祉」はいつも誰かがやってくれることであり、社会保障は常に財源問題で、それは経済の需要と供給の均衡点にかろうじて存在するに過ぎない。

私たちは封建社会から維新を経たものの、長きに渡る暗鬱の戦争の時代に突入、そして敗戦ののちは経済復興で大量生産大量消費の繁栄に酔いしれ、ついぞ、私たち自身で私たちの社会のありようを論じる「市民社会」を経験することなく今日に至ったのではないか。
だから、語句として「ディメンシア・フレンドリー・コミュニティ」を借りるしかなかった。確かにこなれない借り物の言葉だ。しかしそこに文句を言ってもしょうがない。だって、こうした「自分ごと」での社会を規定する言葉を、私たちは生み出さなかったのだから。
「認知症にやさしい社会」とは、この標語の内実を作り上げるための、私たち「市民」の「はじめてのお使い」のようなものだ。

「認知症にやさしい社会」がいまひとつしっくりこないのは、理念として語られることが多く、その背後の現実が切り離されていたこともある。

勉強会では、だから、その「認知症」の厳しい「現実」が語られた。
地域の現実の中では、認知症の人は「認知症」単体の困難を抱えているだけではない。地域での暮らしを成立させる様々な要因が欠損してしまう。
東京都健康長寿医療センターの粟田主一さんは、認知症の人の生活実態調査で浮かび上がったのは、認知症の人の孤立、貧困、「生存」そのものを脅かされる事態の認知症の人の存在だと報告した。

ここに「認知症にやさしい社会」は届いているのか。
「認知症になっても、自分らしく安心の地域」の言葉は空虚に響かないか。

参加者は一様に押し黙った。
それは、この当事者活動に関わる人々の、自身への問い返しだったろう。
ある参加者は「ムラの外では、空虚な言葉になっていないか」と自問し、ある参加者は、自分たちの意識と言葉が、勉強会の中だけで通用する論理に幽閉されているとし、「この幽閉を食い破り、外へ届く言葉と声を見つけないといけない」と自省する。
参加した当事者の丹野智文さんは、「地域に呼ばれて講演することが多い。しかし、私が講演したからといって、それを地域の取り組みの成果とするのはあまりに安易だ」と痛烈である。

勉強会では、仙台の石原哲郎医師と山崎英樹医師の報告があった。
石原哲郎さんは、パーソンセンタードケアの読み返しをすることで、自身の実践を語り、山崎英樹さんは「権利に基づくアプローチ」の概念と実践を語る。
実は、これこそが、理念と現実をしっかりと結びつける大きな力だと、私自身は思っているが、紙幅が尽きた。
これについては、9月の本会議(今回の世話人会は、そのための準備会なのだ。ここでこんなに盛り上がっていいのか)での詳報をお伝えしたい。待たれよ。

「豊かな社会」の幻影の中で、いま止めどなくこぼれ落ちていく人々がいる。認知症の人、一人暮らしの高齢者、困窮者。
その現実に目を据えることでしか「認知症にやさしい社会」への道は見えてこない。

今回のコラムはネガティブに響き過ぎだったろうか。
私はそれでも「希望」を語ったつもりだ。
希望は、砂糖菓子の甘さともろさで語るのではなく、重い現実の中で研磨された希望の原石を掴み取るしかない。

|第77回 2018.8.10|