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映画「長いお別れ」を観て あたりまえの日常に「認知症」を描く

コラム町永 俊雄

▲ 映画「長いお別れ」のそれぞれのそうそうたる俳優陣も、演じるというより自分自身の人生の表現につなげている。観る人もそこに参加して、「長いお別れ」を体験してほしい。5月31日全国ロードショー。

映画「長いお別れ」を観てきた。
認知症がテーマの映画だ。試写会のポスターには「だいじょうぶ。記憶は消えても、愛は消えない」というコピーが添えられている。「記憶は消えても、愛は消えない」か。なるほど。

多分このコピーは宣伝部マターだろうから、映画の作品自体の評価とはまったく関係ないのだが、しかし、このことは、認知症を考える際に案外と大切な要素ではないだろうか。
つまりこのキャッチコピーは、「記憶が消えれば、その人との愛もまた消える」という一般の根深い不安感を前提にしている。いくら「愛は消えない」とネガティブの反転をしたところで、もともとが人々のネガティブな不安をあてにしている以上、どうしても「記憶が消えると愛も消える」という残像を印象づけてしまう。

映画の意味合いは、実はここにある。ある意味で、商業映画というメディアは一般大衆を対象とする。ということは、あるテーマの社会総体での現在地を一番的確に示すことがある。
「記憶は消えても、愛は消えない」という惹句は、今の大衆の抱く認知症の希望の最前線を探ったのだろう。
仮に、人々の認知症観が「記憶は消えても、愛は消えるはずがない」という盤石の確信に満ちていたら、そもそもこのコピーは成り立たない。
この映画が「認知症」をどう描いたか。それは同時に、「認知症」は、今この社会のどこにいるのかを私たちに示すものでもあるといえよう。

この映画は、いってみれば少し深いところからの「認知症」を描いている。
ひとつは、この時代が獲得してきた認知症観や環境を丁寧に反映しているということだ。
「長いお別れ」というタイトルが示すように、この映画での物語設定は、2007年からの7年間にわたって、主人公である厳格な教育者だった父、東昇平(山崎努)が、ゆっくりと少しずつ記憶を失っていく。その過程をめぐっての家族の物語となっている。

かつては、認知症になると何もわからなくなり、数年で寝たきりといった医療情報が、本人や家族を不安のどん底に落とし込んだ。これは、認知症の当事者たちが口を揃えて語ってきたことだ。
これまでの「認知症」をテーマにした映画やテレビドラマでの認知症のステレオタイプは、認知症の診断で、その人の日常は突然、壊滅的に断ち切られ、混乱と悲しみの中、献身的な家族の支えで困難を乗り越える涙と感動の物語パターンだった。それはそのまま、その時の時代状況と認知症観の反映でもあった。

現在の認識では、認知症になっても適切な支援と交流があれば、かなりの歳月、その人らしさは維持できる。そんな今の認知症をめぐる成果がここには反映されている。
ここに描かれるのは、「悲惨な事件」としての認知症ではなく、長い連続した時間の中に流れる「認知症という日常の暮らし」なのだ。

実際、主人公の東昇平の異変は、70歳の誕生パーティの時に起こるのだが、それは小さな異変でしかない。本人の側よりも、むしろその小さな異変が、連れ添う妻と二人の娘の暮らしにさざ波を起こしていく。
その後も7年間の物語の中で、昇平の認知症はゆっくりと確かに進行していくのだが、それは決して起伏の大きなものとしては描かれない。常に日常のくらしの中の点景なのである。
いろいろな事件と呼んでいいことを引き起こし、支障はあっても、映像の中の昇平は、いつまでも昇平なのである。それは実際の介護家族の思いと重なるだろう。
昇平演ずる山崎努の演技は、時が経つにつれ、そのふるまいや言葉、表情は、確かに失ったものを示している。しかし観客は、そこにやはり昇平を見るのである。

進行して、様々なことがわからなくなった昇平が、愛情生活に失敗続きの次女(蒼井優)と縁側に並んで、ふと「この頃、みんな遠くになっていくんだなあ」と独り言のようにつぶやく時、そのつぶやきの全てを次女は感じ取って胸いっぱいになる。空のようにゆたかに父と交感する。
認知症の父ではなく、ただ、父その人がしみじみとつぶやくこのシーンは、映画ではなんの意味づけも解釈も排して、そっと描かれる。その場にいる私たちの感性に響かせるしか伝えられないという制作者の思いだろう。その時観客である私たちは、次女と同じように、昇平の思いを確かに汲み取ることができるのである。
どんなに進行しても、昇平が昇平であることを、観客誰もが感じ取るに違いない。

この映画が現時点での成果を反映した深度ある視点のふたつめは、「認知症」に特化していないということだ。認知症だけを切り出すのではなく、言い換えれば、「認知症」を対象化、問題化していない。むしろ、「認知症の力」が滲み出るストーリーが後半に展開していく。

そこでは「認知症」のテーマは後退し、主に二人の娘の暮らしの波乱を描いていく。それぞれの結婚生活、恋愛、主婦と仕事、そんなあれこれが丁寧に描きこまれていく。
二人とも、見事に「認知症」のあっち側の人間なのである。父が認知症だと言われれば、気にかけつつ、言い訳を並べては、結局母にお任せにする。

娘たちは父の認知症にはうろたえ、押し付け合うが、自分の暮らしのつらさや困難に行き詰まる時、無意識に父、昇平との接点を求める。そして、その昇平から何かを感じ取る。自身の内奥の何かを目覚めさせる父の言葉によって、娘それぞれが新たに歩み出すことができるのである。
「認知症のお父さん、どうしよう」という当初の父への当惑がいつしか、「私、どうしたらいいんだろう」という自分の嘆きに変換された時、父の他者性は自分の中に取り込まれ、あっち側での傍観者の娘が、しだいにこちらの側の「認知症と共にある暮らし」に入り込んでくる。

夫の転勤で米国暮らしの長女(竹内結子)は、家庭内の行き違いに疲れ果て、思いあまって、入院中の昇平にスカイプで話しかけ、ただ一方的に自分の思いを吐き出す。
認知症が進み、すでに昇平は何も語ることはできない。長女の話を聞いているのかいないのか、ただゆっくりと手を挙げる。こうしたシーンは観る側がどう読み取るか。その余白をたっぷりと映像は伝える。長いお別れの時間軸の長さは、同時に感性の幅の広さにも、縦横に観る側に委ねられているようだ。

ここにあるのは、人間同士の深い関係性の力だ。「認知症」だけを切り出さないというのは、「認知症」を通しての、家族それぞれの関係性の修復が主題となっているからだ。
幾分の家父長的な家族の構成がいつしか、つらさと困難を抱えた者同士の、水平な、フラットな関係性に組み直されていく。父と娘、そして妻であり、母である家族が、それぞれが「弱い人間」として、ゆっくりと父と向き合っていく。
家族それぞれが、父の「認知症」の向こうに、本来の、父という人間を見出し、そこに投影される自分自身を見出していく。ちいさくささやかなエピソードを積み重ねて、家族の再生が描かれていく。

ただ、ここに、この社会の現実を重ね合わせれば、こうした家族愛に満ちた物語がどこまで通用するだろうか。

すでに、夫婦に子供二人の「標準世帯」は日本の総世帯数の5%にも満たない(大和総研)。「家族」という標準世帯は解体し、代わって未婚世帯、単独高齢者、単独の認知症高齢者が多数の時代に、いつまで美しい家族幻想に依拠できるのだろう。
むしろ、私たちはこの家族物語をたどりながら、その背後にピタリと迫る社会の現実にも向き合わざるを得ず、あるいは、この物語はそこまでを問いかけているのかもしれない。

物語は、昇平の看取りに至るまでを淡々と描く。
父、昇平が亡くなった後のある日。いつもの日常が戻って、しかし、その映像の日射しの輝きがどこか違う。次女の声音のどこかが違う。輝きが増したのか、陰影の深さか。人生のなにかのきらめきか。

現在、わたしたちの認知症の当事者活動で言われている「当事者主体」とか「認知症と共に生きる」「パートナーシップ」と言ったテクニカルタームを、ありふれた日常の暮らしの中に置いて、ふっと息を吹きかけると、多分、こうした物語になるのだろう。そんな映画だ。

|第99回 2019.4.5|

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