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「認知症」に、拍手を!

コラム町永 俊雄

▲仙台の認知症当事者の丹野智文さんが、介護職の応援と感謝のため拍手する動画を自分のフェイスブックに載せた。認知症の人にとっては、ステイホームはつながりが途切れたやるせない空間だ。しかし孤立ではなく連帯を求めて、拍手を送る。介護職だけでなく、この社会と未来に拍手している。

新型コロナウィルスの最前線で取り組む人々の奮闘で、私たちのステイホームが成り立っている。この最前線が決壊すれば、私たちのホームだけでなく、暮らしと命が崩壊していく。

クラップ・フォー・ケアラーズ(医療従事者たちに拍手を)と名付けられた呼びかけは、どうやらイギリスから始まったらしい。厳しい外出規制の中、家にいるだけでも何か自分たちにできることはないか、ということで市民たちが、決まった時間にバルコニーや玄関先で一斉に拍手を送ることにした。
これがたちまち世界に広がり、ニューヨークの中心部では医療従事者が勤務交代をする午後7時になると、街中に市民たちの拍手や口笛が一斉に鳴り響くと外信は伝える。

いかにも、彼らの文化風土のメンタリティーらしい。
彼らは暮らしの中にそうした自己表現の手段をいくつも持っていて、クラッピングで賛意や賞賛を示し、ブーイングで否認や抗議を表す。
海外からのゲストをまじえて会議をした時に、会議を取りまとめた発表に、そのゲストがスックと立ち上がった。スタンディング・オベーションである。ただし、拍手喝采ではなく、スックと立ち上がるスタンディングのみの行為で、自身の存在をかけての共感と賛意の表現に尊厳さえ感じられた。

その時、同席していた私も同じようにスックと立ち上がるべきだった。あとになって、それをしなかったのを悔いた。
気恥ずかしいのだなあ。日本だとせいぜい、「お手を拝借、ヨォーっ、ポンっ」の一本締めなのだろうが、あれは、何はともあれよかったよかった、といった集団的調和を尊しとする私たちのメンタリティなのだ。

誰かの音頭によるのではなく、個による自発的な自己表現の手段を私たちは持ってこなかった。それが、今、始まっている。
認知症当事者の丹野智文はいち早く自身のSNSで、介護職への応援と感謝のメッセージ動画を掲載した。
医療従事者への感謝をという機運の中で、同じような環境の中の介護職にも支援の声を届けようとしたのだ。少し緊張した口ぶりに彼の覚悟、決意がうかがえる。メッセージに続いて彼の力強い拍手が続く。

メッセージの文面だけを読めば、とりたてて特別なことを言っているわけではない。しかし、これが当事者から発信された意味合いは、この事態が引き起こす時代的転換をも示すほどに深い。

若干の意地悪さで見れば(あるいは相当の意地悪さ)、この、感謝の拍手を、というムーブメントは、どこかファッショナブルなパフォーマンスであり、参加者の何もできないという引け目を体よく解消し、いいことをやっている満足感を与え、なおかつ、ここで医療従事者や介護職にがんばってもらわないとヤバイことになるからな、という功利の思いも働いて、うまく終息の暁には、よかったよかった、私が拍手で感謝したからな、と自己満足のお釣りまで来る。こんな分まわりのいいオッズを逃す手はない。
記していても、私のひねくれた根性がにじみ出ていて、まことにすまない。こんな不謹慎な参加者はいないはずである。

丹野智文の拍手は、当事者として発信している。何かを主体的に引き受けた決意表明としてのふるまいだ。
当事者として彼は、支援者の側ではなくむしろ、介護職の現場である介護施設の認知症や高齢者のまなざしで発信している。だから、メッセージの最後は「がんばってください」ではなく、「共にがんばりましょう」と呼びかけている。
「共にがんばりましょう」は、認知症当事者が、世間に歩みだした時からの変わらないフレーズである。「してください」の要求ではなく、「共にがんばりましょう」の協働を発信してきた。

共にがんばりましょうという認知症当事者のメッセージは何を指し示すのか。
これまでは、この社会は、マジョリティがその多数を占める優位から、弱者であるマイノリティに対しては「救済してあげる」という支援の形で財の再配分をしてきた。伝統的な救貧策の発想は、マジョリティからの慈愛と善意の配分という側面もあったろう。

しかし、新型コロナウィルスがもたらしたこの事態は、このマジョリティとマイノリティの設定を逆転させる。だれが感染者になるかは、マジョリティもマイノリティも、ウィルスには勘案すべき境界線はない。誰もがなりうるという、認知症と同じ状況を、ある意味、これ以上ないほど「わかりやすく」提示したのがこのウィルスなのである。

東京大学先端科学技術研究センターの熊谷晋一郎氏は当事者研究からの提言を重ねているが、「当事者研究から見える社会」と題してこう語っている。

「当事者研究は、言葉のなかった経験に、言葉を生み出す実践です。したがって、その時代その時代で置き去りにされている人々の間で、最も活発に展開していくでしょう。

最近では興味深いことに、マジョリティの当事者研究も始まっています。2000年以降の急速な社会構造の変化によって、マジョリティの中に「新たな苦労を抱えた人」が多く発生しています。
苦労を抱えているにもかかわらず、自分の側にそれを説明できる特徴を持たない彼らは、最も言語が足りていない当事者かもしれません。

マジョリティの当事者研究は、マジョリティが自らの被害者性を弱者への加害へと転嫁せず、新しい困難を説明する言葉を編み上げ、苦労の帰属先を慎重に見定め、インクルーシブな社会へと水路づけようとする試みと言えるでしょう」(2019年11月 NHK 視点・論点)

なんとまあ、これは今の事態と状況にピタリと符合する論説なのだ。
言葉のなかった経験から(あるいは奪われた経験から)、言葉を編み出し、それを広く発信することで自己を回復してきたのは多くのマイノリティの人々であり、認知症の人々だった。

熊谷晋一郎氏の言を借りれば、マジョリティの代表たるこの国はこの事態に、「新たな苦労を抱えた人」であるにも関わらず、「説明できる特徴を持たず、最も言語が足りない当事者」なのである。

この国は「国難」「瀕死の社会」と言いつのり、恐ろしくなるほどの際限ない赤字国債で未来を先喰いする経済対策を注ぎ込み、それでもその後のV字回復を「説明」できる「言語」は足りているのだろうか。

恐怖や怯えからは、未来は開けない。
未来を暮らしていく主体である私たちや子供たちは、恐怖や怯えの中を生きて行きたくない。
「共にがんばりましょう」というのは、暮らしの中にささやかなプラスのインセンティブを積み上げて行きましょうということだ。それは、「何もわからなくなる」として社会言語を奪われてきた認知症の人が発信する未来を語る言語だろう。
それはなにより、精一杯の思いで日々を送る地域の人々に真っ先に届いた。地域の人々が自身の「潜在能力」を発揮することにつながった。
だから、認知症の当事者と共にまちづくりであり、認知症にやさしい社会が成り立ってきたのである。

「破局する社会」ではなく、まったく新たな構想で描くしか、この国が「豊かに成熟する社会」に変わることはできない。誰が、この国の未来の言葉を生み出しているのか。

認知症の当事者たちは、未来を語る言語を持つ「先行する者」として、今、この事態の中にいる。その認知症の人々が拍手を送る。医療と介護の関係する仲間に拍手を送る。そして、その自分たちにも拍手を送るだろう。

全国各地、誰もが、自分の暮らす地域とそこの人々に拍手を送る。
誰もが一人ひとり、スックと立ち上がって未来に拍手する。

「認知症」に、拍手を!

丹野智文氏の応援メッセージ(Facebook)はこちら

|第138回 2020.5.1|

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