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時代の中で認知症を語るということ 〜仙台発・認知症当事者勉強会から〜

コラム町永 俊雄

▲認知症当事者勉強会は仙台からのオンラインで行われた。右上から町永俊雄氏、川村雄次氏、山崎英樹氏、馬籠久美子氏、丹野智文氏、そして実行委員長の木之下徹氏。下段はアクリル板に取り囲まれてのオンラインの様子。

丹野智文氏の近著「認知症の私から見える社会」は、どうやらこの社会に小さからぬ波紋を及ぼしているようだ。出版されてわずか半月ほどで増刷されたという。
新書としてのこの本の体裁は、たかだか160ページ、一日で読み通せる。しかし、読んだ人の多くは、読むほどに立ち止まり、行間を行き来し、虚空に想いを走らせ、マーカーペンで傍線を引き、ついにはほとんどの行にマーカーした人もいる。
このコロナ の日々の閉塞の中で、一人の認知症当事者の、この社会への呼びかけはどんな共鳴と共振を及ぼしているのだろう。

先日、認知症当事者勉強会が、この本の出版を機に丹野智文氏の「認知症の私から見える社会」をめぐって、オンラインで開かれた。
認知症当事者勉強会というのはご存知の方もいるかもしれないが、2012年に認知症当事者研究勉強会として生まれた。もともとは北海道浦河のペテルの家などでの当事者研究に触発されたところから始まったが、その後まもなく参加者自身も当事者性を持つということから認知症当事者勉強会と改称している。
しかし、この勉強会には長い伏流期がある。それは2003年(まだ痴呆と呼称されていた)のクリスティーン・ブライデンの来日以降の日々である。クリスティーン本人の発信に接したケア、医療、メディア、行政が結集して小さな勉強会を重ねていた。それが前史である。

当事者勉強会は、回を重ね熟議を交わし、認知症ワーキンググループが生まれ、2015年の認知症施策推進総合戦略(新オレンジプラン)の当事者視点の策定につながっていく。
実は、診断を受けて間もない丹野智文氏もこの勉強会に参加している。仙台から39歳で診断されたというひとりの青年が上京し、パイプ椅子にポツンと終始うつむきがちに語っていたのが丹野智文氏だった。当然取材も撮影もその時はNGだった。

当たり前のことながら、丹野智文氏は突然現れたわけではない。この社会の「認知症」のうねるような状況の変化が彼を世に押し出していく。
時代が彼を生み、そして丹野智文という当事者が時代を牽引してきたのである。

勉強会のチラシには、「丹野智文が語る 丹野智文と語る 丹野智文を語る」というキャッチコピーが載せられていた。勉強会は多層構造を積み重ねるようにして、ひとりの当事者と、オンラインのそれぞれの自分という当事性との対話を目指した。

まずは「丹野智文が語る」として、なぜこの本を書いたのか。そのことから丹野氏が語る。
実は丹野智文氏はそれまでに300人を超える認知症の仲間と語り合ってきた。そのことがこの本の柱になっている。彼はそのことをこう語った。
「仲間たち誰もがみんな同じことを言うんだよ。ずっと言い続けている。でもそうした声はこの社会に届いているのだろうか。この社会は相変わらず変わっていない。それならそのことを本に書くしかない」

当事者の声が今なおこの社会に届いていないと彼はいう。相変わらず変わっていないではないか、と。
彼の告発、としてもいいのかもしれない。心地よく行き交う世間の「認知症とともに生きる」ことは、実効しているのか。彼は仲間が精神病院に入院させられ拘束され、亡くなったことを記し、なぜこのようなことが起きるのか、と繰りかえし問いかけている。
当事者としての丹野氏が指摘するのは、そこには当事者の本人意思はなく、支援者や家族の意思が先行しているのではないかということだ。

本人意思が奪われていくのは、精神病院の中だけではない。それは当事者の日常で、「やさしさという勘違い」の章では、奪われていく本人の意思の現実を多くの仲間の声とともに事例を連ねている。

精神病院や、とりわけ家族のことを丹野氏は勇気を出して記したというが、勉強会の場ではこうも付け加えた。「果たしてこれを書いていいのか、書くときも怖かったが、今もまだ怖いんですよ」
彼は何度も「怖い」と言う。彼を怖がらせているのは誰か。社会の側の何かが彼を怯えさせている。彼を一番怯えさせているのは「やさしさ」の中に忍び込む善意に隠された認知症への根深いスティグマではないだろうか。

勉強会では二人の講演があった。
実はこの講演が大きな役割を果たした。これが丹野智文氏だけでの勉強会であったなら、ともすれば賑やかな出版記念会といった趣きのパーソナルな会に閉じたかもしれない。
講演は、時代の中に「丹野智文を語る」ことであり、丹野氏の「認知症の私から見える社会」への誠実な返歌だった。

講演者は、ひとりがいずみの杜診療所の山崎英樹医師で、山崎氏はかつての老人病院に収容されていた高齢者の現実から語り始め、認知症高齢者の急増の中での保護入院や身体拘束のデータを示し、時代転換としての丹野智文氏の著を読み解きながら、そこにドイツの法哲学者イェーリングの「権利のための闘争」を引用し、丹野智文氏を、認知症の人の「人間の権利」を発信する人の出現と位置付ける。

イェーリングは、すべての権利は闘いとられたものであり、観念や思想であるより生きる力なのだとしている。丹野智文氏の感じる怖さもイェーリングのいう、自己の権利を必然と感じ取る「倫理的苦痛」なのだろう。彼は間違いなく闘っている。笑顔のために。

もうひとりの講演者は北海道医療大学名誉教授の中島紀恵子氏、中島氏は老年介護のパイオニアであり認知症ケアを築き上げた人でもある。
中島紀恵子氏の講演はまるで丹野智文氏の投げかけた「認知症の私から見える社会」を真っ向から受け止めるようにして、認知症ケアの時代の中の変化と深化を語った。
かつての施設ケアと在宅ケアの二極が、小規模多機能、地域展開へと統合し、それはケアを変えるだけでなく社会の側の課題をあぶり出す。
それが家族という両義性で、家族は社会的人間のアイデンティティを育むと同時に、抑圧と支配にもはたらく。さらに地域共生の進展は、ユーザーデモクラシーの流れを生み、それは従来型専門職の限界を浮き上がらせると、中島氏は、人間の機微をダイナミックな時代性に動かした。

また、中島氏はアメリカの教育学者ネル・ノディングスの「ケアリング」概念を紹介し、「ケアリングとはケアする者とケアされる者とが、状況に応じて入れ替わるような一連の関係性を生む」という言葉を引用している。
だとすれば丹野智文氏は、このケアリングという互いに入れ替わる新たな関係性を呼びかけ、その視点から見える社会を私たちに提供しているとも言える。互いに入れ替わる当事者のまなざしで見るこの社会は深く息づくようだ。

ちなみに中島紀恵子氏の講演タイトルは「私はいかにして丹野さんと喜ばしい出会いをしたか」である。人間を見るまなざしに「愛情」がある。認知症ケアとはそういうものだと既にここで言い尽くした。

認知症はすでに認知症単体で語ることはできない。認知症を語ることは社会を語り、人間を語ることである。そして常に時間軸を動かしながら認知症を考える、そんな勉強会でもあった。時代が認知症を動かし、認知症が時代を創っていく。

私はこの勉強会を通じて、しきりにひとすじの源流を遡る思いにかられていた。
それは、痴呆老人の世界に深く踏み入った精神科医、小澤勲先生の言葉である。小澤先生は1998年の「痴呆老人からみた世界」の冒頭にこう記した。

「痴呆老人からみた世界はどのようなものなのだろうか。彼らは何を見、何を思い、どう感じているのだろうか。そして彼らはどのような不自由を生きているのだろうか」

そして2003年の「痴呆を生きるということ」には、こうも記している。
「これまで痴呆を病む人たちが処遇や研究の対象ではあっても、主語として自らを表現し、自らの人生を選択する主体として立ち現れることはあまりに少なかった」

「痴呆老人から見た世界」と「認知症の私から見える社会」
そして、「主語として自らを表現し、自らの人生を選択する主体」と「人間の権利」

10月2日の、晴れ上がった仙台の一室から発信されたあの勉強会は、確かに小澤勲先生の思いを受け継ぎ受け渡した。私はそう思う。
時代の中に語る認知症は、常に新しい。

|第188回 2021.10.7|