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「死ぬのは怖くない」 がんの人のナラティブを受け継ぐ ~札幌・がんフォーラムの物語~

コラム町永 俊雄

▲上段、平馬さとみさんと堀田豊稔さん。お互いの誕生日も仲間と一緒に祝った。下段の写真、地域活動の時、子供と接する時、平馬さんはいつも輝く笑顔だった。

がん患者だったその女性は、3年前に亡くなった。
その人の物語を、先日の札幌でのがんフォーラムで紹介した。不思議な力に満ちた、そして深い想いがつながるような「物語」だった。

亡くなったその人の生前の写真はどれもはじけるような笑顔に溢れている。
真っ赤なTシャツを着てカメラに向かってVサインをし、あるいは若者たちと一緒にガッツポーズをしている写真もある。どの写真も笑顔だ。沁みるような笑顔だ。
フレームに飾られた写真は、雰囲気がガラッと変わってターコイズブルーのドレスを身にまとい、あごに軽く手をあててエレガントな微笑みを浮かべている。

「がんが見つかったときには、5年生存率が30%って主治医に言われて、それで写真館で撮ったのがこの写真なんです。これ、遺影にするって」
そう語るのは、その女性の娘さんだ。
フレームから優しい笑みを投げかけているその女性は、平馬さとみさん。
平馬さとみさんは、53歳で後腹膜肉腫と診断された。希少がんの一種で、からだのあちこちにこぶのような肉腫ができる治療困難ながんだった。

しかし、そんな中でも平馬さとみさんは旺盛な地域活動を続けた。いや、自身の命の限界を知ってから、より活動に熱を込めたと言ってもいいのかもしれない。
アレルギーを持つ子供の親の会、アレルギーの子供でも安心して食べられる無農薬の米や野菜などを農家に掛け合って作ってもらったり、さらには不登校の子供の親の会、がんサロンを立ち上げ、キャンサーサポートの活動にも関わった。

そんな中で平馬さんは一人の青年と出会った。
堀田豊稔(ほりたとよとし)さんだ。堀田さんは、少年院や児童養護施設を出た後の子供たちの支援に取り組んでいた。実は堀田さん自身も以前に少年院や刑務所に入った経歴を持つ。だからこそ、そうした施設から出た後の彼らの行き場のない現実を誰よりも知っていた。
平馬さんと会った時、堀田さんは、そうした行き場のない境遇の少年たちと家族と過ごすような場を持ちたいと家を探していた時期だった。

今でも堀田さんはなんでそういうことになったのか、よくわからない。
平馬さんは堀田さんの活動を聞くと、出会ったその日のうちに自分の家を見せに行った。そして、その家は堀田さんに譲られ、現在堀田さんはそこで三人の青年と共同生活をしながら活動に取り組んでいる。

平馬さとみさんは、その2年後、2018年9月に亡くなった。享年60歳。
亡くなるまで平馬さんと堀田さんの交流は続いた。
堀田さんは、平馬さんが亡くなった後も折にふれては平馬さんとのエピソードや言葉を思い返しては、平馬さんの人生をなんどもなんども辿るようにしては、考えこむ。

堀田さんは出会ったその日のことを、衝撃的だったと振り返る。
「平馬さんは会ってすぐ、私、がんなんだって言うんです。しかももう治らないがんだからって。
ええ~って、私、聞いちゃったんです。死ぬの怖くないですかって。そうしたら平馬さん即答しました。怖くないわよ。私、結構やっているもんね」

またこんなエピソードもあった。
堀田さんは、平馬さんとここに来る若者たちの関わり方を見て、あることに気づく。それは平馬さんは若者のありのままをまず無条件に受け入れる。
あるとき、友達のものを盗んではそれを売って生活していた若者が、もう売るものもなくなりどうしようもなくなって、ここに来たことがあった。当然、堀田さんはとんでもないやつだと思った。が、その若者に平馬さんはこう言った。
「あなたは素晴らしいね。生きる力がすごい」
その若者はキョトンとしていたという。
堀田さんは、そうか、と今にして思う。まず受け入れ、認める。そうすると相手は安心する。そこから対話が始まるのだ、と。

2018年9月6日、北海道胆振東部地震が起き、北海道全域で大停電が起きた。
そのさなか、堀田さんのメールの着信音が暗闇に響いた。平馬さんからのメールだった。折り返し連絡するが通じない。
何度も何度もかけ直してようやくつながった電話口で平馬さんはまっさきに「みんな大丈夫?」と気遣った。堀田さんがみんなの無事を伝えると「大丈夫ならよかった。安心した」と答え、それから「トヨ君、今日はもう切るね」と電話が切れた。
それが平馬さとみさんの最期の言葉だった。平馬さんは自分の命を振り絞るようにして電話で伝えたのかもしれない。9月を越えることなく平馬さんは逝った。

平馬さとみさんが亡くなって3年。
堀田さんは今も、時間をかけてじっくりと亡くなった平馬さんと対話を続けている。平馬さんは死ぬことに直面しながら、どのような思いで生きていたのだろう。どうして死ぬのは怖くない、と即答できたのだろう。

困難ながんを病んだひとりの女性と、いっとき自分を見失った経験を持つ青年との出会い。全く違う世代と世界の人生を歩んできた二人が、一人は命の残時間を突きつけられ、もう一人は世間からの冷たい視線に自分の居場所を見つけられなかっただろう経験を持つ。自分が自分で居られる場所はどこか。

おそらくは、二人は会った瞬間に互いの中に自分を見いだしたのかもしれない。互いの中に見た自分とはどんな姿をしていたのだろう。弱い自分か、だからこそ生ききるようにして人生を歩む自分だったのか。それはわからない。しかし、この二人は、その時から、互いの人生の物語を撚り合わせるようにして、ひとつの物語につなげていった。

札幌のがんフォーラムのテーマは、「エビデンス・ベイスド・メディスン(根拠に基づいた医療)」と「ナラティブ・ベイスド・メディスン(物語に基づいた医療)」だった。
がん医療の進歩は、エビデンスに基づく医療として構築されてきた。しかし、そうした進歩を真に成果とするためには、進歩から取り残されるがん患者に目を向けなければならない。治療が困難な患者、高齢者のケア、死に至る病の人々。

そこに英国の医療者が提唱したのが、物語に基づく医療だ。
患者の価値観、人生観という物語を聴き取るようにして、臓器ではなく、人間の豊かな人生の物語を共に歩んでいく。

このコロナの日々、私たちは誰かの物語を生きるしかなかった。対策と施策と感染リスクが吐き出す物語は、私たちの日常と物語を奪ったのだ。
ナラティブは、その人のものだ。その人の物語、その人の語り。

ナラティブは、その人が亡くなっても終わらない。喪失は悲哀に満ちているが、しかしそこから生まれるものがある。そこからその人の物語を受け継ぎ、そしてそれは次の命につながっていく。それが哀しいけれど揺るぎない世界の秩序だ。誰もが、母、父、友、地域の人々の命を受け継いで、自分の物語を生きる。

私たちのつながりというのは地域の横のつながりだけではなく、命を縦につなぐことで、今を生かされている。亡くなった人の存在や想いは何かを託し、何かを託され、生きた人、今を生きる人、そしてやがて生まれ出ずる命へと物語は続いていく。

死ぬのは怖くないと即答した平馬さんの言葉を堀田さんは最近、こう思うようになった。
「平馬さんは、生ききったんだなって思う。語れるような自分の人生だったから、死ぬのも怖くなくなったのかなとも思ったりして…」

最後に噛み締めるようにして堀田豊稔さんは付け加えた。
「まだまだ、平馬さんには追いつけねぇんだな」

秋の深まり、冬の訪れ。大きな循環の中の、北の大地につながるナラティブという物語。            
(取材:伊藤三保子 構成・文:町永俊雄)

▲生前、自分の遺影にして欲しいと写真館で撮った平馬さとみさん。平馬さんの物語が聴こえる。

|第192回 2021.11.16|

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