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「認知症とともに生きる」の碇を下ろす

コラム町永 俊雄

▲今年の大型連休は、コロナからの開放感もあってどこも大賑わいらしい。私はもっぱら「安・近・短」である。安上がりの近場の短時間、ね。葉山の隣、逗子マリーナにて考えた。

いよいよゴールデンウィーク突入だ。
一年で一番いい季節とされる5月、まさにゴールデンウィーク、黄金週間である。
しかし、私の属していた公共放送では、ゴールデンウィークとは言わない。大型連休ということになっている。

ゴールデンウィークはもともとは1960年代に映画会社が連休の集客宣伝のために名付けたと言われている。当時は映画が最大の娯楽だったし、64年の東京オリンピックを前にしての高度経済成長を駆け上がろうとしていた湧き上がるような時代の気分もあった。

「しかし、だからこそ、こうした恩恵とは無縁の人々、休みもなしに働く人々を考えなければならん。そうした人々にとっては必ずしも黄金の日々ではない。だからね、ウチでは大型連休というのだよ」
私が新人研修だった頃、大先輩アナウンサーはタバコをふかしながら、こう語った。あの頃のアナウンス室にはやたらタバコの煙が充満していた気がする。

「けっ、単に映画会社の宣伝の片棒をかつぎたくないだけだろ」
生意気なだけの当時の私はそう思ったものだったが、しかし、メディア全体がゴールデンウィークを煽る中で、頑ななまでに大型連休とするのは、偏狭というより今にして思えば、そのカタクナさは、むしろ貴重だったのかもしれない。
大勢(たいせい)だけを見るのではなく、そこからこぼれ落ちた人々へこそまなざしを向けていく。そうした使命感が、放送という公共へのいくばくかの誇りとなって受け継がれていた。今もそうであると思いたい。

さて、大型連休である。
どこにも行く予定もないので(孫たちの襲撃があるかもしれない)、あれこれの雑事と共に改めて考えてみたいことがある。
コロナの日々の3年間は感染対策、感染予防という大きな流れに巻き込まれ、どこか思考停止のままに過ごしてしまったのかもしれない。イヤだからこそ、この社会の実相を考え直すいい機会だったのかも知れない。
踏みとどまるようにして考えるのは、「認知症とともに生きる社会」である。
果たしてどこまで来たのか。コロナの日々が空白のように横たわっていて、その現在地がよく見えてこない。かすかに危ぶむのが、言葉だけが油紙にたらす水滴のようにツルツルと滑ってしまってはいないか、ということである。

最近、認知症を、災いであり抜け出すことができない闇であり、誰もが受け入れられるはずがないと断定した上で、そこから新たな希望を造るという言説が世間に躍り出た。認知症のキッパリとした否定の上の希望というその落差の大きさは鮮烈で、印象的なメッセージと受け止めた人も少なくはなかったろう。

こうした多様な認知症へのアプローチ自体は、この社会に認知症への一定度の関心の水位が満たされたからなのだろうし、これまでにない新しい認知症へのソリューションの提示は、新鮮に映ったのは確かだ。
しかし、私がどうしても違和感を覚えるのは、この言辞は「認知症とともに生きる社会」そのものを葬り去ろうとしているとしか思えないことだ。ここには、現在暮らしている認知症の人々の存在否定があり、不幸の人と規定してしまいかねないことである。やはり、認知症になることは、今なお不幸と恐怖に陥るばかりで、決して受け入れられないことなのだろうか。

あるいは、これはひとつの警告かもしれない。
「認知症とともに生きる」を語るとき、どうしてもポジティブな認知症観を先行させる。認知症になっても自分らしく生き生きと、できること、やりたいことをともにする社会、と。
そこに、「そんなわけないだろ」とその空隙を突いたのだ。そんな甘いことで、認知症の人の切実な現実をなおざりにしていないか。
あるいは、「認知症とともに生きる」のフレーズが人口に膾炙する中で、認知症に対する社会の偏見や差別との苦難のプロセスがそっくり抜け落ちてしまったのではないか。そこに付け込まれたのか。

いや、そのような「付け込まれた」といった恣意的な見方はするべきではなく、単に「認知症とともに生きる」ことの形成プロセスがこの社会には十分共有されていないからだとは言えないか。より良き社会総体の斬新には、それまで獲得した社会知を幅広く共有し、互いに確認しあいながら歩むしかない。それが果たして、十分にできていたのか。

「認知症とともに生きる」とは、実は診断直後の当事者の不安の最大値である不幸と恐怖の日々をくぐり抜け、かろうじてたどり着いた地点なのである。
来月に公開される丹野智文さんをモデルとした映画「オレンジ・ランプ」は、実は現在の丹野智文に至るまでの彼自身の、まさに「不幸と恐怖の日々」を中心に描き、そこから立ち上がる希望をオレンジ・ランプに託して伝えようとしている。絶望の中からの希望が胸を打つのである。

「オレンジ・ランプ」を企画プロデュースした山国秀幸さんは、この映画を人生の可能性をテーマとしながらも、一方に存在する認知症や介護をめぐる過酷な現実をどう扱うかに悩んだ。そこで彼の出した結論は、認知症を恐怖と短絡させるような描き方だけはしないということだったと語っている。
これが「認知症とともに生きる」の現在地であろう。
過酷な現実は充分に承知していながらも、しかし、認知症を恐怖と短絡させない。過酷な現実と共生とのあやうい均衡点に希望の明かりを灯すような営為である。

私たちは、この社会にうずくまるネガティブな認知症観に対抗するためには、とにかく認知症になっても自分らしく、笑顔で生きることができるとポジティブな認知症観をいい交わしてきた。しかし、そう言っているうちに次第にそれは理念と現実の重みから離れて、あまりに楽天的な響きを周囲に振りまいてしまったのかも知れない。都合よく使い回された希望は、たちまち過酷な現実に侵食され、甘い砂糖菓子の天使のように崩れていく。

認知症を語ることは、涙でじっとりと重い。
これまで私たちは、認知症当事者や家族たちの悲哀や絶望や嘆きや喪失に向き合い、ひたすら聴くことからともに歩みだした。喪失からは、なじみの居場所を生み出し、深い悲哀を突き抜けるようにして、ともに生きる力を見つけることができた。私たちは彼ら彼女たち当事者に何かを成したわけではない。彼ら彼女たちのつらさや困難を分かち合うことで、彼らからこの社会の希望への道筋を示してもらったのである。

で、スマナイ。ここで一気に話は飛ぶ。何しろ大型連休気分なのである。
認知症を語るのに、ネガティブな認知症観とポジティブな認知症観と対立的に記してきたが、そもそもこうした図式的な認知症観の分類でいいのだろうか。
もっと根本的にこの社会の認知症をどう捉えるのかが求められている。そこで思い出したのが、「ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability)」という概念だ。

もともとは19世紀の詩人ジョン・キーツが言い出した言葉で、それは「事実や理由をせっかちに求めず、不確実や不思議さ、懐疑の中に居られる能力・負の能力」とされる。

そう言われてもよくわからないのだが、まあ、もう少し辛抱してお付き合い願いたい。ここから結構すごい認知症論に行き着く、と、私は思っている。
作家で精神科医の箒木蓬生は、その著「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」で概ねこのように記している。

まずは「負の能力」だが、通常、能力というと何かを成し遂げる能力のことを言うが、このネガティブ・ケイパビリティというのは全く違って、ある意味で「答えの出ないどうにも対処しようのない事態に耐える能力」なのだという。
私は、認知症というのはこの「答えの出ない事態に耐える力」なのではないかと思う。

箒木蓬生によれば、現代は、なんでも分かろうとする時代で、マニュアルやハウツーが全盛なのもそれを示している。だが、分かろうとすることは得てして本質の表層をなぞる低い次元となりがちで、対して、ネガティブ・ケイパビリティという答えの出ない事態に耐える能力は、対象の本質に深く迫ることができるとする。
そしてそれは、分かろうとすることに閉じるのではなく、他人の内なる体験に心を開き続けることで、他者の痛みに共感を持って接近できるとしている。近年、精神医学分野でこの言葉が再発見されたのは、ネガティブ・ケイパビリティが精神医学の限界を開く概念と受け止められたからだ。

私がキーツのネガティブ・ケイパビリティの全貌を理解したとはとても言えないのだが、しかし、このネガティブ・ケイパビリティにはそのまま、「認知症とともに生きる」ことの本質に当てはまる気がする。
私たちは、喪失や進行や悲哀などを常にネガティブな心情に分類するが、それはむしろ答えのない事態に身を置いて、ひたすら耐える能力を発揮している状態なのである。
認知症を解決すべき課題と閉じず、心を際限なく開くようにして答えのない事態の中に身を置くこと、それが「認知症とともに生きる」なのではないか。

時代も社会も、そして生きることにも全てポジティブであることばかりが求められていることに私たちは疲弊している。だが実は、それぞれの人生も社会も不可解なことに満ちている。それは答えの出ないどうにも対処しようもない事態の連続とも言える。そこにネガティブ・ケイパビリティ「負の能力」を置いてみると、何か不思議な生きる力が湧いてくるような気もする。それが認知症の存在の力だ。

「認知症とともに生きる」、このことを時代の表層に漂わせるのではなく、深海の底に錨を下ろすようにしてつなぎとめる。確かな碇を下ろす底は社会の現実か、それとも自身の心の底か。

|第245回 2023.5.2|

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