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認知症基本法の「わかりやすい版」をなぜ、つくったのか 〜声に出して読む「認知症基本法」〜

コラム町永 俊雄

▲夏のミナトヨコハマ。コロナの日々は世界が閉じていた3年だった。認知症基本法は、この社会を押し開く「扉」だ。ただ、この扉、けっこう重厚にできていて、押し開くにはやや力技がいる。そこでその脇にささやかなエスカレーターをつけるような思いで、認知症基本法「わかりやすい版」をつくった。二列で昇ってね。夏空のように世界は広々と開かれている。

認知症基本法の「わかりやすい版」を作成した。嬉しいことに、認知症の本人から自分のホームページに載せたいとか、さまざまな人から勉強会に使いたいといった声が寄せられた。わざわざ「よろしいだろうか」と丁寧に断りや許可を求める人々もいて、かえって恐縮する。むろん断りなど必要ではなく、自由にお使いいただければと思う。

認知症基本法は、「共生社会の実現を推進するため」と謳うように、この認知症社会を方向づける法律である。共生社会の成員だれもが、この基本法について知るべきであり、語るべきであり、語り合うことで初めて意味を持つ。
認知症基本法について、いわゆる「識者」だけが評論していて、いいはずがない。

ただ、現実問題として、法律の条文の性格上、どうしてもわかりにくい。そのことで認知症当事者をはじめとして、地域の人々、中高生などの若い世代がとっつきにくいのであれば、それは結果として、最も認知症基本法を必要とする人々を排除してしまうことになり、「共生社会の実現」を目指す認知症基本法の本旨にもとる。

であれば、というわけでこの認知症基本法の「わかりやすい版」を作成した。
実は、法律の「わかりやすい版」には先行モデルがある。
2011年に、それまでの障害者基本法を、国連の「障害者権利条約」に合わせて改正することになった。そのためにできたのが2009年の、障がいのある人や家族、支援者による「障がい者制度改革推進会議」で、ここでまとめられた意見に基づいてできたのが、2011年の改正障害者基本法だ。この一連の動きは画期的で、当事者の存在が社会を変革したといってもいい。

この改正障害者基本法で一番大きく変わったのが、人権に基づく共生社会を目指すとされた点で、まさに基本法としても、今回の認知症基本法の先行モデルなのである。
そしてその推進会議のメンバーが、少しでも多くの人に理解できるようにと作成したパンフレットが、「わかりやすい版」だった。

改正障害者基本法の「わかりやすい版」がどのような体裁か、一部だが、読みくらべてみよう。
その第1条は、「わかりやすい版」ではこうなっている。

第1条 目的(目指すこと)
この法律は、すべての人が人権を持っているという考え方に基づいて、障害があってもなくても分けられず、一人ひとりを大切にする社会(つぎからは「共生社会」といいます)をつくるために、自立や社会参加を支援する法律や制度をよりよいものにしたり、つくったりすることを目指します。(本来は全文ルビ付き)

何か、ここには障がいのある人や関わる人の想いが凝縮されているようだ。
これが、原典では、「わかりやすい版」の2倍の字数で、ぎっしりと書き込まれている。もちろん厳密な条文の定義としては必要な記述ではあっても、なかなか読み下す、というわけには行かない。
ちなみに改正障害者基本法の条文の原文の書き出しはこうである。

「第1条 この法律は、全ての国民が、障害の有無にかかわらず、等しく基本的人権を享有するかけがえのない個人として尊重されるものであるとの理念にのつとり、全ての国民が、障害の有無によつて分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を実現するため…」、ここまでが前半で、ここから同じ分量の文字数を費やして、綿密な論理でこの法律の目的が組み立てられている。

「わかりやすい版」と読み比べると、その違いは一目瞭然である。ただし、これはどちらがいいということではない。改正障害者基本法の「わかりやすい版」を成立させているのは、その背景に、障がい当事者や支援者など推進会議のほぼ2年にわたる分厚い討議のプロセスがあって初めて、あの文章に練り上げることができたのである。

このプロセスをまだ持たない認知症基本法の場合、同じ手法で、今回の認知症基本法の「わかりやすい版」を作るわけには行かない。むしろ、ここから幅広く話し合いを始めるためのテキストとして使われることを想定している。
だから、認知症基本法の「わかりやすい版」は基本的には、原典に忠実に依拠している。

そうはいってもどう書き換えていけばいいのか。
その作業自体が、自分の当事者性の検証ともなった。この「わかりやすい版」の初稿は、丹野智文さんに読んでもらった。丹野さんは、「わかりやすい」と評してくれた上で、「それでもまだ難しい。ここに私の意見などを書き加えていったら面白いと思う」と感想を返してくれた。
そうなのだ。こうした当事者などとの共同作業が始まるといい。認知症基本法は与えられた金科玉条ではない。ここから新しい動きや地域や人々が生まれる扉なのだ。

そのためにも、この「わかりやすい版」はこれを使いながら、原典の認知症基本法とも読みくらべながら語り合いができればいいと思う。
その意味で、なるべく元の用語を活かしながら、時にその意味するところを括弧に囲いながら注釈などを加え、「わかりやすい版」とした。

例えば、基本的人権とか合理的配慮も、大切な用語である以上それを残しつつ、注釈を加えてある。
また、よく使われている熟語も、全体の文脈で見逃すことができない言葉は噛み砕くようにして言い直してある。
例えば、基本理念の四には、「認知症の人の意向を十分に尊重しつつ」とある。この「意向」という言葉はつい、そのままでもいいとも思ったのだが、ここは認知症の人の主体に関わる大切な概念である。「意向」をどうするか。
「わかりやすい版」では、こうした。「認知症の人のどうしたいか、どうするつもりかといった考えを十分に尊重しながら」。
こうした書き換えの作業で、大きな力になったのはこれまで多くの認知症の人々との話し合いの場を持ったことだった。すべての書き換えには、そうした当事者のイメージが力となっている。

書き換える段階で、見えてきたことも多い。
たとえば、第一条の共生社会を実現するとした記述では、「もって認知症の人を含めた国民一人一人が・・」となっている。

私はここでの、「認知症の人を含めた国民一人一人」という記述が新しいと思う。
これまでも2015年の認知症国家戦略・新オレンジプランにも「認知症の人を含む」という表現はあるのだが、それは実は「認知症の人を含む高齢者にやさしい地域づくり」となっていて、どこか、認知症の人と高齢者を一括りにした対策や対象化への傾斜がある。

ところが今回の認知症基本法では「認知症の人を含めた国民一人一人」と、認知症の人は国民に包摂、インクルーシブされているのである。これまでの、認知症の人「と」私たち、という表現には、そこに明確な境界線が引かれていて、でもまあ、「共に生きましょう」といったニュアンスだったのが、この、認知症の人を「含んだ」国民となれば、そこに境界線はない。包摂された本来の、多様な人々との「共生社会」なのである。

その背後に睨みを効かせているのが、次の「基本理念」の、「すべての認知症の人が、基本的人権を享有する個人として・・」と宣言されていることだ。基本的人権をいう以上、認知症の人とそうでない人とに人権の違いがあるはずはない。

つまりこの社会は共生社会を目指す、とした時点で、そこには基本的人権が裏書きされていることを冒頭で記しているのだ。私たちは、権利に基づく共生社会を目指す、と。

では、私が作成した認知症基本法「わかりやすい版」ではどう記したのか。冒頭を参考までに。

目的(目指すこと)
第一条 この法律は、認知症の人が尊厳(自分が自分らしくあるために大切にしている考え方や生き方)を保ちながら希望を持って暮らすために、(中略) 認知症の人だけではなくみんな誰もが自分の得意なことやできることで活躍し、認知症の人が他の人々と互いに力を合わせ支え合いながら、ともに暮らすことができる安心で活力に満ちた社会(これを、「共生社会」とします)を実現することを目指します。

基本理念(認知症を考えるときのいちばん基本的で大切な考え方)
一 すべての認知症の人が、基本的人権(人が生まれながらに持っていて、誰からも奪われない権利)を持っている個人として、その人自身の意思によって自分の暮らしをおくることができるようにしなければなりません。

いうまでもなく、「わかりやすい」というのは、レベルを落とすことでもないし、誘導的に勝手に改竄したわけでもない。そこは極めて慎重に客観としての条文精神をなぞったつもりだ。目指したのは、これこそが認知症バリアフリーの実践であろう、ということである。

やったことは、ただ、暮らしの言葉に置き換えたことである。
暮らしの言葉というのは、実はとてつもなく力強い。この社会のだれもの存在と感覚に根ざした暮らしの言葉で認知症基本法を語ったつもりだ。言い換えれば、声に出して読む認知症基本法と思ってほしい。(実際、丹野智文さんは、音声読み上げ機能で聞いたという)

この「わかりやすい版」は、認知症当事者や関わる人々の語り合いの片隅に置かれることを願って、深更、そうした人々に囲まれているような想いの中、書き上げた。

*参考:認知症基本法「わかりやすい版」

|第252回 2023.7.12|